自分だけの内臓

心臓や脳みそ、右腕、左腕、その他自分を形成するパーツは色々あるが、そのワンセットが自分自身であり、自分の全てだ。

その価値は、自分自身以外の誰とも共有する事は出来ず、基本的に生まれてから死ぬまで自分自身で管理・調整し、守り抜かなければならない。

もし仮に、その価値を自分以外の誰かと本当の意味で共有出来たのだとしたら、それはどれほど幸せを感じられる事なのだろう。

恋人や家族、親友、そういった心通った人達とコミュニケーションをとる時、まるで自分自身の価値を、他の誰かと共有出来たかのように感じる瞬間がある。

しかしそれは幻想だ、人間は2019年の現時点では、まだ誰も孤独から逃れる事は出来ていない。

抱き合ったり、性行為をする程度では、孤独は共有など出来ない。

共有できたかのように錯覚して、現実を直視しないような方法もある。

それ以外にも、人間の孤独との付き合い方は色々あって、特にマニュアルも無いので、各々しっくりくる方法、好きな方法を選んで生きていけばいい。

とにかく、人間はどうやっても、孤独から完全に逃れる術は無い。

だからこそ人間は美しい。

誰しもが平等に孤独を抱え生きる世界の中で、自分だけの内臓や四肢を持ち歩き、おおよそ100年前後、地上を行き来する中で、人間の脳みそはフル回転し、色々な感情や考え方が生まれる。

そんな人間から出た渾身の言葉や表情は、何にも変えがたいほどに美しく、大変に純粋なものだと思う。

純粋な心を捨ててはいけない

純粋な心は人生の宝だ。

純粋な心があるから、人生は美しいし、愛おしい。

しかし、純粋な心は時として、人生を生き辛くもする。

例えば誰かに騙され、裏切られ、傷つけられた時、純粋な心があればあるほど、人間の心は深く傷がつく。

そんな場面に出くわす度に、人間は自分の心を守るため、純粋さを切り捨てていってしまう。

けれど、純粋さを捨て、誰も信じず、希望を抱かず、日々淡々と生きていく毎日の中に、果たして人間の幸せはあるのだろうか。

人生に希望を見出せないのは、自分の純粋な心が輝いていないからだ。

世界中の何もかもに興味を抱けないのは、世界中が真暗闇なのではなく、自分の純粋な心が、世界を照らせていないからだ。

純粋な心があれば、何もかもが輝いて見える。毎日が楽しくてしょうがなくなる。

どんな孤独や恐れにも負けてはいけない。

自分の純粋な心は、誰に託すでも頼るでもなく、自分自身の力で守り、輝かさせなければならない。

誰にも注目されない命

誰にも注目されないような命でも、確かに意識があり、心がある。

腕をつねれば痛いし、大切なモノを失えば心は大きく揺れ動く。

それらは目に映らないことだから、一見誰もが毎日を飄々と生きているように感じるのだけれど、

本当は全然違う。

今日もこの街では、たくさんの人が悩み、精神をすり減らし、今日を生きようと必死に努力した1日だったのだろう。

淡々と通り過ぎていく人達にも、それぞれの暮らしや人生があって、ひとつとして粗末に扱って良い命などは無い。

一見、大した魅力を感じないような人間にも、産みの親がいて、誰もと同じように孤独を感じ、純粋な心を温めている。

一見、何事も無いような人生の中にも、迷いや恐れがあって、心が大きく揺れ動くようなドラマが存在している。

要するに、知らないだけなんだ。

目に映らないから分かり難いだけであって、本当はたくさんの人達の思いが、今日もこの街では渦巻いていた。

人間は、死ぬまで何も分からないままで居たほうがいい

若者は柔軟だ。

新しい知恵や技術をいとも簡単に習得し、グングンと成長していく。

一方で老人は、これまでに得た知恵や技術でもって問題を解決しようとするから、成長が無い。

「分からない」という心の状況は、人間を成長させる。

分からないから知ろうとするし、学ぼうとする。

逆に、「分かっている」という心の状況では、人間の成長は無い。

分かっているから、これはこうに違いない、そんな決め付けが生まれ、それ以上のアイデアや発見が生まれない。

だからこそ、常に「分からない」という心の状況でいることが重要だ。

常に、あらゆる可能性を捨てず、様々な角度で物事を見るように心がけた方がいい。

そして、その結果出した結論は、常に「仮説」にしておくと良い。

悩みぬいて出した結論も、今現在の精神レベルや経験値で出した仮説でしかなく、真実は死ぬまで分からないままでいい。

人間は、死ぬまで何も分からないままで居たほうがいい。

幸せって何だろう

人それぞれ、幸せの価値観は異なる。

例えば、毎日ボーっと与えられた仕事をこなし、退屈な仕事だなと思いながら、低い賃金をもらって暮らす人と、

自分の理想的な仕事をこなして、毎日が充実していて楽しいなと思いながら、高額な給料をもらって暮らす人が居たとする。

理想的な仕事をこなしている人が、ただ与えられた仕事をこなしているだけの人を見れば、きっと「もっと勉学に励んで、自分が理想とする仕事に就けるよう、努力すればいいのに」と、思うはずだろう。

逆に、毎日与えられた仕事だけをこなしている人が、理想的な仕事をこなし充実している人を見た場合、きっと「あんな風に理想的な仕事に就けたらどれだけ楽しいだろうか」と、思うはずだろう。

では、ただ与えられた仕事をこなし、毎日を退屈だと嘆いている人は、必ずしも勉学に励み、理想的な仕事に就けるよう、努力をしなければならないのだろうか。

答えは、全くそんな必要は無いと思う。

例えば、理想的な仕事に就き、毎日充実しているなと思っている人を、世界経済を動かすような大規模な企業の社長が見たら、どう思うだろうか。

きっと、「まだまだ上に行くチャンスはある、俺だったら、現状に満足せず、もっと高みを高みを目指すだろうな」と、思うはずだろう。

では、理想的な仕事に就き、毎日充実しているなと思っている人は、必ずしも現状に満足せず、もっと高みを目指さなければならないのだろうか。

答えは当然、全くそんな必要は無いと思う。

人生における幸せの価値観なんて人それぞれだ。

ビッグビジネスを成功して夢を掴むような幸せもあれば、国の法律に則り、生活保護を需給しながら毎日ゴロゴロ楽に暮らす幸せだってある。

法に触れるような事をすれば、法に則って裁かれる必要はあるが、法に触れていないのであれば、基本的に何も問題では無い。

もし、生活保護を受給しながら毎日ゴロゴロ暮らす人を本気で批判したいのであれば、個人を攻めるのではなく、自分が先導をきって生活保護に関する法律の改正を世間に求めればいい。

その結果、生活保護をもらいながらゴロゴロ暮らす人が死刑になるような法案が可決すれば、望みどおりの未来がようやく訪れるだろう。

もしくは批判ではなく、大きな夢を掴むことがどれだけ幸せな事かを、自分が先導をきって、みんなに紹介すれば良い。人生における幸せの価値観はひとそれぞれだし、誰もそれを変えさせる権限は持っていない。

では、恋人や家族、ビジネスパートナーと言った、より距離の近い間柄であれば、どうだろうか。

人間は、より強い人間同士の繋がりを求める一方で、お互いに異なった個性や価値観を持っているため、パズルのように寸分の狂いも無くガッチリと相性の良いパートナーなど、基本的には存在しない。

異なる部分を、お互いの信頼や愛情でもって、協力しながら隙間を埋める作業が必要となる。

しかし、信頼や愛情があったとしても、どうしても埋まらない隙間もある。

少しぐらいの隙間であれば、お互い少々の妥協や愛嬌でもって、見逃すことも出来るが、

あまりに致命的で、どうしても耐える事の出来ない大きな隙間もある。

世界規模の企業を目指す人間と、ただ自分にとって理想的な仕事に就きたい人間がビジネスパートナーになった場合とか、

純粋な愛情でもって繋がった家庭を求める人間と、人に自慢出来るステータス重視な家庭を求める人間が家族になった場合とかは、信頼や愛情があったとしても、どうにもならない場合がある。

絶対にどうにもならない事態というのは基本的に無いと思うが、人生は有限だ。

その問題の解決に、100年、200年と時間を掛けるわけにはいかない。

ありったけの愛情や信頼でもって、出来うる限りの努力をして、それでも問題が解決せず、あまりに事態が長引きそうな場合は、関係を解消し、お互いがそれぞれ、より価値観の近いパートナーを探し始める必要がある。

人生は、ドラマや映画じゃない。だから、耐え難い程に悲しい別れだって存在するし、目も当てられないようなバッドエンドだって存在する。

だけど、それだけ信頼や愛情を寄せ合って、一時はパートナーとして共に生きていく道を選んだ仲なのであれば、別れの時ぐらい、お互い笑顔で、お互いの健闘を称えあって別れたいものだと思う。

人に迷惑を掛けても良い

一生懸命取り組んだ物事が失敗して、人に迷惑を掛けてしまった。

自分は、幼い頃から親に「他人に迷惑を掛けないようにしなさい」と教わってきた。

例えば、泥棒をすれば自分の懐は潤うが、盗まれた相手は当然迷惑だ。

人を騙して利用すれば、自分の生活は充実するが、騙された相手は当然迷惑だ。

だから、他人に迷惑を掛けるような生き方は、基本的に間違っている。

但し、唯一迷惑を掛けても良い場合がある。

それは、関わる人全ての幸せを願って、一生懸命物事に取り組んだ場合だ。

きっと成功すると思っていたプランが破綻して、皆に苦労を掛ける事になった。

でも、本当に一生懸命取り組んで失敗してしまったのであれば、落ち込んだりする必要も、責任を感じる必要だってない。

それは、信じたやつが悪いんだ。

彼を信じたその人は、審美眼が優れておらず、信じてはいけない人についていってしまったせいで、失敗をしてしまっただけだ。

自分以外の他人に、完璧を求める事なんて間違っている。

自分以外の他人に、自分にとって理想的な展開を強要する事なんて間違っている。

自分が相手を信じられるかどうか、その判断力を完璧にする事だけが、自分で出来る唯一の事だ。

一生懸命やった結果、失敗してしまった人間は、法律的にこなさなければならない責任だけを果たした後は、何を後悔する必要も、責任を感じる必要もない。

なぜ失敗してしまったのかを振り返り、次、同じ失敗をしないようにすればいい。

人生は何度だって失敗していいし、何度だって挑戦していい。

純粋な心が好きだ

純粋な心が好きだ。

本当にそれだけで、他には何も無い。

純粋な心同士の共鳴だけを、自分は人生の中で唯一求めているんだ。

それ以外は、消えてなくなったって何とも思わない。

今まで見つけてきた、絶対的なようなもの達は全て幻だった。

全部消えて、無くなってしまった。

自分の心の中にある純粋な領域、その微かな明かりだけを頼りに、今日から生きていこうと思う。