ニーチェの本を読んで

先日、ふらっと立ち寄った本屋で哲学にまつわる本を読んだ。

それがとても面白く、立ち読み(蔦谷家電なので座り読み)で最後まで読みきってしまった。

それで、もっと哲学について知ってみたいなと思い、その本の中でも紹介されていた哲学者「ニーチェ」に関する本を読んでみた。

哲学なんて、自分の人間性的に最も関心を持ちそうな話ではあったが、自分でも意外なほど「哲学」とジャンル分けされた本は今まで一度も手に取った事が無かった。

読んでみた感想は、とても興味深く面白い内容ではあったものの、特別目新しい発見はほとんど無く、自分が普段感じていることが文字として分かりやすくまとめられているばかりであり、ただただ、自分の考えていた事はやっぱり概ね正しいんだろうなと思う結果となった。

一瞬、ニーチェと同じ結論に天然で辿りつくなんて、オラってもしかして天才なのかも、、、!と思ったが、要するに今まで自分が手にしてきた本であったり、見聞きした話と言うのが、間接的にこういった哲学的な考えに沿った内容となっているため、自ずと自然に身についていたのだと思う。

ニーチェの思想は一言で語るのが実に難しいが、簡単に言うと「世間体だとか富とか地位とか順位とか、そういった一般的な幸福の指標と言うのは全て幻なので、自分がこうありたいとか、こうなりたいという自分本位の成長欲求に従い、周りとの順位など気にせず、将来の事や結果にも惑わされず、ただただ死ぬまでその欲求通りに精進し、死ぬ間際になったら「また同じ人生でもいいぐらい楽しい一生だったなぁ!」と、精進した事自体に満足して死ぬといいよ」というような内容だ。

ただ、本の内容にはいくつかは自分が辿り着けていなかった共感できる考え方や話もあった。

ひとつは、キリスト教に関する話だ。

このブログでは、トラブルに繋がりかねないという考えから、これまで意図的に宗教にまつわる話はタブーとして書かないできたのだが、今回読んだ本は出版社によって出版された本であるにも関わらず、惜しみなく宗教にまつわる話がされていたので、ああ、別に歯止めを利かせなくて良いのかもなと思い、今日を機に宗教にまつわる話も解禁しようと思う。

自分は、宗教にまつわる話に非常に関心があり、一言で言えば好きな話題だ。

それは、神様を信じてるとか何とかと言う信仰心によるものではなく、人間がこれまで宗教と共に生活をしてきた歴史の成り立ちに関心があるという話だ。

自分は、宗教自体を否定するつもりはないし、信仰するも批判するも、別に自分の居ない場所で自分に全く被害を蒙らないのであれば、他人が他人同士好き勝手討論するなり殴りあうなりすればいいと思っているが、どちらかと言えば、やっぱり人間には必要なものなのかもな、少なくとも現代においては、と思っている。

しかし、キリスト教に関してだけは、あくまで個人的にではあるけれど、あまり好きではない、というか、はっきり言って嫌いまである。

この宗教こそが人間の生活を煙にまき、うやむやな価値観を蔓延させ、人間を本質から遠ざけた元凶であり、だから身の回りに自分にとって面白みのないコンテンツが増え、自分の人生における退屈を増長させてきていると感じて、ストレートに言ってムカついている。

ただ、それでもやはりキリスト教を含め、現代の人間の価値観においては宗教は必要なものであり、それによってたくさんの人が幸せな生涯を送れたのだろうと思うし、だからこそ宗教は存在すべきものだったのだろうなという結論に落ち着いている。

ニーチェは、キリスト教を奴隷道徳だと説いているらしい。

いわゆる、キリスト教の教えにもある、苦しみに耐え善行を尽くした人間は天国にいけるというのは、現実社会で勝利を勝ち取れなかった奴隷が唱えた負け犬の遠吠えのような戯言だという話だ。
(ちなみに、当時実際に奴隷として扱われていたユダヤ人が作ったユダヤ教がキリスト教の始まり)

だから、いわゆる苦しい事に我慢することが正しいだとか、権力ある人に従うことが美徳とされている道徳的な考え方というのは、あまりに不憫で馬鹿馬鹿しい現実逃避の負け犬考えだ、これは人間が本来進むべき生き方を大きく逸脱している、というような事を言っている。

誤解の無いように早めに弁護しておくと、別にニーチェは弱いものいじめをしているわけではなく、ただ事実を淡々と述べて、そんな奇天烈な思考の渦中にいる人間を救い、まっとうな人生のルートに導きたいという想いから、そういった言い方をしている。

自分は、人間の道徳的な考え方がとても好きだ。とても暖かいし、ほのぼのするし、可愛らしいからだ。

だから、こういった道徳的な思考は、人間が元来持ち合わせた本質的な部分かと思っていたのだが、ニーチェの言葉を聞いて、別に真実だとか本質だとか正義だとかとは程遠い幻だと知った。

そんな話をすると、なんだか自分がネガティブで後ろ向きで皮肉な考えに陥ってるように思われそうだが、むしろ真逆で非常に晴れ晴れとした気持ちで「なるほどねー!これはすっきり!」という面持ちだ。

哲学的な話というのは、特に序章では「生きる意味はない」的な話が続き、恐らく誰もが絶望的な気持ちになるのだけれど、これはクスリで言う所の苦いとか不味いとかいう感覚に近くて、まさに治療途中では避けては通れない感覚だと思う。

この苦味の先に、本当の解決や希望が見えてくるのだ。

少し話を戻して、道徳の話に戻ると、上述した通り、人間の道徳的な思考というのは真実でも本質でもなく、元を辿れば奴隷達が作り出した負け犬思考なのかもしれない。

しかし、それを踏まえても自分は道徳的な思考が好きだ。

これが正義でなくても真理でなくても構わない、単純に自分自身が好きなのだ。

なぜなら、とても暖かくて、ほのぼのするし、何より可愛いからだ。

もっと言うと、その裏側には、とても冷たい現実や、ぎすぎすした人間関係や、おぞましいほどの狂気が「陰」として存在し、その表裏一体が実に美しく、これをアートとして具現化したい!という衝動にかられる。

今まで、自分は道徳的な考え方が好きでありながら、根っからの正義や優しさは持ち合わせていないなと自覚し、そこに一つの矛盾を感じていたが、この本を読んだことによって、そういった劣等感というか未熟感が拭い去られ、迷いが無くなった気がする。

自分は誰に尊敬されるような正義や優しさは持ち合わせていないが、ただひとつ言えることは、そういった人間の純粋な道徳心が、影に潜む邪心も含めてとても可愛らしく思え、とても好きであり、それだけは揺ぎ無い自分の心だなと思えるようになった。

自分的には、ニーチェの本を読んだことによって、またひとつスキルアップ出来たような気でいるが、いわゆる常識的な価値観から見れば、また一歩逸脱してしまったのかもしれないなと思えたが、そのことさえも少し誇らしく思える自分は、もう常識人とは大きくかけ離れてしまったのかもしれないなと、また誇らしく思えた。

今日は、自分が滅多にテーマとして選ばない、恋愛についてブログを書いてみようと思う。

作詞において大定番のテーマと言えば、間違い無く恋愛に関わる話だろう。

なぜ、自分が恋愛を作品作りにおいてテーマとして選ばないかというと、単純に感動に欠けるからだ。

例えば、平和に暮らしていた母子が突然の事故で離れ離れになってしまっただとか、家族にまつわる話というのは自分はとても感動する。

また、戦争など人の生き死にに関わる話というのも、私はとても興味深く、実に感動する。

他にも人生のあり方だとか、人の孤独についてなど自問自答系の題材も、自分は非常に興味深く感じる。

しかし、燃えるような恋に落ちて心ときめく時間を過ごし、その後でお互いのすれ違いで恋愛が終わってしまった、等というのは、悲しいでも感動でもなく、何というか五体満足で健やかに過ごせて良かったね、というような感想に落ち着いてしまって、いまいち製作欲がかき立てられないのだ。

そういった形で、特にここ数年の作品作りや作品鑑賞において軽視し続けていた恋愛だが、最近はもう一度見直してみようという気持ちになっている。

そのきっかけとなったのは、自分の作る作品が、どれも非常に重く、もうちょっとリラックスして鑑賞出来るような作品も作ってみて良いのではないかと思うようになったからだ。

恋愛というのは、人の生活に置いて普遍的に刺激的な要素であり、加えて多くのことを学ぶきっかけにもなるので、特に若いうちは恋をしたほうが良い場合が多いと思う。

恋愛はとても美しく、それでいて儚い、まさに幻のようなものだ。

なので、年をくってからもあまりに追いすぎてしまうと、幻想に振り回されて実の無い生き方になってしまいがちなので、あまり人生の絶対的な要素にはせず、陽炎のような人生の甘い一面という程度に留めておいたほうが懸命だと個人的には思う。

しかし、世の中のラブソングというのは、どこか恋愛狂のような主人公が登場しがちなので、いまいち感情移入や共感が出来ず、遠ざけていたコンテンツだ。

ここまで書いたテキストを読み返してみると、仮にこれが正論なのだとしても、とてもじゃないが人に共感を与えられるような作品は作れそうにない。

やはり、恋愛を題材にする場合は、もっとその感情に没入して、不合理に気づかず、狭い視野の中で作品作りをするような形が最も感動的な作品が出来ると思う。

恋愛とは、大人としての人間性を培うだとかいう話と真逆を行くようなコンテンツではないだろうか。

しかしそれはとても美しく、とても充実した時間を与えてくれる。

獣のように愛し合うか、もしくはそんな心境を模したような心模様を描かないと、素晴らしい作品は作れないのかもしれない。

頑張り屋

人間の体というのは、実にチープな作りだなと最近良く思う。

私達がごく当たり前に摂取している魚の体の構造と、大まかに言えばそんなに変わらない。

顔には目があって、口があって、

その口から食べ物を摂取すると、いくつかの内臓によって栄養が摂取され、

最後はその残りかすが糞となって体外に排出される。

そういった行為によって、一定期間生命は生き、活動をする事が出来る。

大体そんなような仕組みの生命体が、少しずつ特徴を変えて様々な種類に分類され、それらが地上で共に生活を送っている。

鳥、猫、ワニ、鶏、これらは一見大きく異なるようで、根本的にはそれほど大きな違いは無い。

獣たちは食べ物を口やくちばしで直接摂取するが、人間は獲物を皿に盛ってから摂取をする。

世の中には色々な動物がいるけど、人間は本当に変わった生き物だ。

とは言え、野生の獣たちとはそれほど大きくは変わらない。

だから、生きている意味だとかも、野生の獣たちと大きくは変わらないのだろう。

芝生を走り回ったり、おいしい食べ物を摂取したりする事が幸せだから生きている。

病気で苦しんだり、ケガでうずくまったりするのが嫌だから、そうならない手段を探している。

そうやって生き抜いた先に何があるのかと言えば、そうやって生き抜けたんだなという満足感や達成感があるだけで、それ以外は特に用意されていない。

苦労してクリアしたゲームソフトの最後には、そのゲームの製作に関わったスタッフロールが流れて幕を閉じる事になるが、大体そういった感じと同じだ。

うまくクリアすれば、最後はエンディングらしい演出を見る事は出来るが、それまで蓄えたレベルやゴールドは無価値となり、そこから先のストーリーも用意はされていない。

また、途中で力尽きてしまった場合は、ゲームオーバーという悲しい演出を見ながらゲームは幕を閉じ、そこから先のストーリーは用意されていない。

どんな結末を迎えようと、どの道そこから先のストーリーは用意されていないのだが、唯一異なる事は、途中でゲームオーバーとなってしまった場合、本来用意されていたストーリーを辿る事が出来ないという事だろう。

例えば、新しい友と出会ったり、その友と一緒に強大な壁に立ち向かったり、そんな友と別れたり、

そんな様々なドラマを体感出来ずにストーリーが終焉するというのは、まさにバッドエンド、ゲームオーバーだろう。

特別主だった冒険が無かったとしても、人間の脳内では様々な思考が行き来して、見えにくいだけで様々なドラマが存在する。

毎日家の中でとじこもっているだけの人も、様々な葛藤や憧れ、怒りや絶望が脳裏を巡っている。

私達人間は、最後のエンディングを求めて人生を生きているわけではなく、その道の途中に転がるドラマを求めて生きているのだと思う。

だから、どんな結末を迎えたいかよりも、どんなドラマを見たいのかという考え方で進む道を探せば、自ずと充実した人生となり、自然と求めていたエンディングにも辿り着けるのではないだろうか。

自分の場合、求めているドラマというのは、たくさんの尊敬でき信頼できる友が居て、彼らと協力して大きな夢を叶え、その達成を記念して旨い酒と飯を食う。

そしてまた新たな夢を見つけて、同時に新しい友と出会う、そんな繰り返しだ。

常に人がそばに居なくても構わない、むしろ一人きりの時間は自分の人生にとって非常に重要で充実した時間なので、人生の6~7割くらいは一人ぼっちが良い。

そんな一人ぼっちの時間で技術や精神の鍛練を行い、残りの1~2割でその力を発揮する、そんな繰り返しが理想的だ。

順位や記録には特別こだわりはない、ビジネスにせよアートにせよ、空想や理想を具現化するという作業に一番の喜びを感じるからだ。

どんな空想や理想を具現化したいのかと言うと、純粋で美しく、感動的で情熱的なものだ。

そして純粋で愛すべき他人が笑顔になって、健やかに充実した人生を送る、自分の活動がそんな事の手助けになれれば良いと思う。

とは言え、そういった活動に人生を支配されるのもごめんだ。

まったく休暇が無く、毎日スケジュールに圧迫されるような人生は全くもって望まない。

人生の1~2割くらいは休暇が良い。

一人で過ごすのならば、ただダラダラと旨い酒と飯を食らい、ゴロゴロと映画や漫画や音楽など好きなコンテンツを摂取するだけという至福の時間は絶対に捨てがたい。

誰かと過ごすのならば、心から安らげるような人と心から面白いと思える遊びをしたり、ただダラダラと時の流れを感じたりだとか。

そういった休暇は必要だ。

とは言え、休暇が10割も願い下げだ。

鍛練6割、行動2割、休暇2割、それが自分の理想のバランスだ。

何らかしらの目標を見つけ、その達成に向けて日々鍛錬し続ける事が、自分の人生においてメインディッシュなのだと思う。

今日は何となくPCを立ち上げ、特に思う事もないまま適当に筆を走らせてブログを更新してみたが、何とも取り留めも無い文章がダラダラと出力され、まさにこんな感じの思考の動きが、普段の自分の脳内の状態なんだなと再認識した。

自分は、自分が思っている以上に頑張り屋なのかもしれないなと思った。

想い出は消えない -楽曲解説-

ずっとやろうと思っていた事だったのだけど、歌専用のYouTubeチャンネルを開設しました。

それで、カバー曲の他、ぼちぼち作り貯めていたオリジナル曲も録音・撮影して公開しているんだけれども、今回のブログでは楽曲の解説的な事をしてみようと思う。

こういうのは言わぬが花だとも思うんだけれど、わざわざこんなブログにまでアクセスしてくれている人は、何かしら自分の作品に興味を持ってもらえている人だと思うので、多くを語っても良いのかなと思うし、そもそも自分が話したがりなので素直に執筆してみようと思う。

この曲は、実は先日小さいライブに参加する事になって、そのイベント用に新しく書いた曲だ。

ライブまで一ヵ月ちょいの頃で、何の曲を書こうか悩んでいたんだけれども、音楽というのはその時代に合った音楽を発信すべきと思い、自分が非常に色々な思考を巡らせた、京都アニメーションの事件を題材に曲を書こうと決めた。

前のブログでも書いたけれど、自分はアニメが非常に好きで、京アニの作品である「日常」は、自分のアニメ史上でも3指に入るほどのお気に入りタイトルだ。

そんなアニメーション会社で、あんな事件が起こってしまい、自分はとても残念な気持ちになった。

この曲は、一見して被害者の方々への追悼を込めた歌詞のように作っているのだけど、実はそれだけではない。

この曲は、加害者である犯人の視点にも重なるように歌詞を作っている。

私がこの事件を考察して一番印象的だったのは、加害者や被害者の事では無く、これら一連の事件に対してコメントをする第三者達の言葉だった。

被害者の方々を憐れむコメントと同じくらい、いや、それ以上かもしれない。

犯人に対する、あまりに心の無い罵声が、コメント欄には溢れかえっていた。

もちろん、今回の加害者が起こした事件は決して許されるものではない。

恐らく加害者の体調が回復し、様々な手続きが完了したら、死刑判決は免れないであろう。

そもそも死刑という制度事体を問題視する声もあるし、それはそれで理解出来なくもないのだけれど、とは言え今の日本の法律では死刑判決が妥当だと思うし、仮にそうなったら私は「ああ、やはり死刑判決になったのか」と思うだろう。

どんな理由があれ、このような大人数を巻き込む殺害事件を起こしてしまった人間は、極刑は当然であり、もしそれを覆してしまうのであれば、法律やルールは何が何だか分からなくなってしまう。

私が問題だと思うのは、法律や死刑に関する議論では無く、犯人に対して一面的な見方しか出来ず、一方的に「死ね」などの罵声を浴びせる、第三者の「無知」に関してだ。

どんな凶悪な犯罪を犯した人でも、それは人の子なのだ。

最近、妹の家族に姪っ子が生まれた為、より強く実感するのだけれど、どんな犯罪者も、赤ん坊の頃というのは、まだ右も左も分からず、キラキラとした真ん丸の目をパチパチとさせながら、泣いたり、笑ったりしていたのだ。

犯罪者は生まれながらにして犯罪者なのではない、子供から大人になっていくその過程の環境の中で、犯罪者になってしまうのだ。

ではその環境とは一体何なのだろうか。

最も大きいのは両親の作る家庭環境だろう。

そして友達関係、学校の先生、職場関係などなど、人間は人間によって作られた様々な人間関係によって環境が構築され、その環境が人間性に大きな影響を与える。

今回の犯人に関して調べてみると、まさに凶悪な犯罪者を作り上げる、典型的なルートを辿っていたのだなと私は感じた。

やはり家庭環境は散々だったらしい。更には学校でもいじめの対象となり、恐らくこれといった友達も出来ないまま、学生時代を過ごしたのだと思う。

クラスメイトの言葉の多くは「いじめられたりしていたみたいだけど、ほとんど記憶にも印象にもない」だった。

私は幸いにも、家庭環境にも友人関係にも大変恵まれた人生を過ごす事が出来た。

だから、今の自分が居るのだ。

他人の事を大切に思う事も出来るし、社会生活をトラブル無く過ごすことだって出来る。

仕事にも趣味にも、情熱をもって取り組む事が出来る。

人生に希望を見出して生きていく事が出来る。

これらは全て私の力では無く、私の身の回りの環境を作ってくれた両親や友達、学校や政治であり、私はただただ感謝するしかない。

凶悪な犯罪者の多くは、きっとこれらが無かったのだろう。

だから、他人の痛みに鈍感になり、社会生活でもトラブルを起こし、

仕事にも趣味にも情熱を持てず、

だから、人生に希望を見いだせなかったのだろう。

これは、ある意味でその人の責任ではなく、その人の周りで環境を作った人たちの連帯責任だと私は思う。

しかし、仕方が無い事なんだけれども、この国の法律では、罪を犯してしまった人間、その本人だけが罰せられる事になっている。

彼の事を馬鹿にして、いじめていた人たちは、一切のお咎めを受ける事もなく、過去の事など忘れたかのように順風満帆な人生を謳歌しているかもしれない。

または、彼の一面を見ただけで何もかもを決めつけ、全く理解しようとせず、ただただ否定をしていた人たちも、未だに他人の文句ばかりを口にして、ボリボリと煎餅をかじりながらテレビを見ているかもしれない。

本当に悪いのは誰で、本当の解決策は何なのか。

私は、真の犯人は、今回の事件に関して「死ね」だの「生まれてくるな」だの、人が人に対して使う言葉としてはあまりにも心無い、そういう言葉を平気で発信できる人達ではないかと思う。

そういった言葉を使う人たちは、悪人なのではなく、無知なのだ。

人の痛みや苦しさ、孤独に対して、理解が無いのだと思う。

だから、物事の一面だけを見て、何もかもを知ったかのような気になって、浅はかな考え、浅はかな言動によって、知らず知らずのうちに他人を傷つけているのだ。

そうして傷をたくさん受けた人間は、少しづつ犯罪者としての素質を育てていく事になる。

そんな風にして犯罪が生まれるのだとしたら、悪とはつまり無知の事を指すのだと思う。

心無い言葉を発する人たちも、凶悪な犯罪者の悲惨な生涯を自身で疑似体験出来たとすれば、きっと考えを改めるだろう。

無知な第三者は無知なだけであって、人として必要な優しさや愛情は持ち合わせているのだ。

だから、ただ物事を理解すれば、ただそれだけで悪は滅するのだ。

そういった考えを経て、私がアーティストとして作るべき作品は、そういった凶悪犯の視点を作品を通して伝える事だと思った。

とは言え、あまりに露骨にそういった作品を作っても人には伝わらないと思い、被害者側としても加害者側としても読み解ける、だまし絵のような歌詞を書いた。

もしこの曲を聞いて、被害を受けた人たちがかわいそうだなと思えたのならば、それと同じ熱量で、加害者の事もかわいそうだと思って欲しい。

誰もと同じように人の赤ん坊としてこの世に生まれ落ちたのに、満足に親の愛情を受け取る事もできず、友人も出来ず、

それで犯罪を犯して、名前も知らない大勢の人達から強烈な罵声を浴びせられ、そして何年も刑務所の中で死刑の日を待つことになる。

ただの1度も光の差し込む事の無い人生だ、これがかわいそうと思えないのであれば、もう人じゃない。

人が人を愛せなくなったら、人は人としておしまいだ。

彼は、今この瞬間もまだ息をしている。

様々な犯罪を犯した今も、彼の脳内には、彼を犯罪者として仕立て上げた「想い出」が、今も消えずに記憶として残っている。

誰に頼る事も出来ず、誰を愛する事も、愛される事もなく、ただただ孤独な人生の中で、心のままに涙を流して暮らしているのだろう。

人が人として当たり前のように得られる、普遍的な愛情や友情を纏った想い出は、どれだけ記憶の中を探しても見つからず、

ただただ、孤独や怒り、悲しみや恐怖といった記憶だけが、今も脳内から消えず、死刑台に登る日を待っているのだ。

いつか彼が死刑となる日が来たら、このブログを見てくれている人達だけでもいい

被害者の事をかわいそうだなと思った、その時と同じ熱量でもって、加害者の死をかわいそうだと思って欲しい。

壊死

例えば虫歯になって歯が痛くても、放っておけば段々と痛みは無くなっていく。

それは自然に治癒するのではなく、神経が壊死して痛みを感じなくなるのだ。

人間の心も同じだ。

誰かに裏切られたり、騙されたりして、心がひどく傷ついた時、人間の純粋な心は少しずつ腐って、壊死して、最終的には痛みに気づかなくなる。

痛みが無いから平気なような気分でいると、取り返しのつかない大変な事になる。

身体が痛みを感じるのは、体に危険が迫っているのを知らせる為だ。

痛みを感じないという状態は、刻一刻と事態が悪化しているにも関わらず、その危機に気づけない状態だ。

痛みは無くても、体の奥の方で壊死が進み、腐り、膿が溜まっていっているのだ。

痛みが無いから、他人の痛みにも気づけないのだ。

そして更に壊死が進んで、膿が限界量まで溜まってしまうと、人間の体は朽ちてしまうのだ。

痛いと感じられるという事は、健康の証拠だ。

心が純粋で、活力があるからこそ、痛いと感じるのだ。

その痛みから逃れようと、心を腐らせてはいけない。

じっくりとその痛みと向き合い、原因を探り、少しづつ自分の手で治癒しなければならない。

2020年になりました

今になって思えば、2019年は色々な事に悩み、悩みながらも猛然と様々な考えを進めたり、スキルアップに努めたりした一年だったように思う

別の角度から見れば、2019年は何の進展もない一年でもあった。悩んだり練習を重ねたりしているだけで、目立った成果はひとつもなかった。

2020年は、目立った成果を出せる年にしたいと思う。

今まで作品作りにおいて最も深刻な悩みだった事は、自分自身が人に伝えたいと思う事が何も見あたらなくなってしまった事だった

自分自身の孤独感や不安、関わり合う人達への感謝、愛する人へのメッセージだとか、心から発信したいと思える事柄が何もなくなってしまった

自分自身の心模様や主張を、誰かに知ってもらいたいという欲が無くなってしまったのだ

自分自身は誰に理解されなかろうと、支えてくれなかろうと構わない、自分自身の事は全部自分で解決すれば良いし、そういった自己解決は実に容易いという結論に達した

なぜなら、30代の男性というのは地球上で最強の生命体であることを、つくづく理解したからだ

そんな最強の生き物が他の誰かに頼ることが、何だかとても格好が悪く思え、それによって強力な自立心が生まれ、その結果、自分自身の中にあるものを外に発信したいという気概が無くなってしまったのだと思う

しかし、これには明確な解決方法が見つかった

自分自身のあるがままを他人に向かって闇雲に発信するのではなく、自分以外の他人が発信しているSOSをキャッチして、そこに向かって自分自身のあるがままの精神を共鳴させてメッセージを発信すれば良いのだ

自分自身の心を楽器のように扱い、心を響かせて共鳴させる

もっと端的に言えば、自分がステージに立ったとき、それを見ている観客が「自分に」求めているものを見定め、それをそのまま表現すれば良いという事だ

しっかりと様々な角度から話をしないと誤解されてしまいそうだが、観客に媚びるだとか、流行りに乗るとかそういう意味では無い

とにかく自分は、自分に少しでも関心をもって自分のステージに足を運んでくれた観客に対して、今まで感じたことの無いような感動や共鳴を届けたいと思う

そして、自分の作った作品を心から愛してほしい

観客が心から愛するに相応しい作品を作りたいと思う

そのためには、まずは自分自身が極限まで自立する事だと思う。

自立すれば心にゆとりが生まれ、そのゆとりは他人の心を理解するために非常に有効なスペースになると思う

また、他人の心を理解するために、もっと他人と関わるべきだと思う。

誰かと飲みに行くとかもダメではないが、人前で演奏するという機会をもっと増やさないとダメだ。

また、他人の純粋な心と共鳴できるような、繊細で美しい心でいることも非常に重要だ。

良い楽器は鳴りが良いが、「鳴りが良い心」でいることがとても重要だ。

そうやって様々な他人の心を深く理解して、その人が元来持っている純粋な心に響き共鳴するような作品が作りたいと思う

自分自身の発信したい事柄が無くなってしまったと書いたが、目標はある

それは、人が人として生きていく為に、普遍的に必要である基礎的な道徳心や人間性の見直しだ

現代では様々なテクノロジーの進歩によって様々なコンテンツが生まれ、それによって様々な価値観や考え方が生まれた

知名度や権力や財力、あとはビジュアルの美しさが人の価値として評価され、多くの人かそういったスペックの高いパートナーを見つけようと努力しているわけだが、冷静に考えてみれば、これらは何て狂った価値観が蔓延しているのだろうと思わざるを得ない

ごく一部の人が、そういったスペックを重視しているだけならば問題無いと思うのだけれど、こういった価値観が一般化しているのは非常に問題があると思う

確かに一見、こういったスペックが魅力的に見えることは十分理解出来る。小学生が、あのアイドルと結婚したいだの何だのとワイワイ話をしていたりする分には微笑ましいと思うが、良い年をした大人が人の人間性や本質の一切を無視して、こういった表面的なスペックにばかり目が移ろっている様を見ると、ストレートに言ってとても情けなく思えて泣けてくる。

人生なんてはっきり言って無意味の連続で、確かなものなど一つも無いのだけれど、そんな無価値な人生を、ますます意味のないものへと自ら追いやっているように思う。

お金が無いと生活が~と言う人も居ると思うが、基本的にお金なんて生活が出来るだけあれば十分だと思う。

生活出来るだけに十分なお金を得るには、現在の貯金額や資産ではなく、「世間の為にこういった形で役に立ちたいという具体的な目標を持ち、それに向かって着実に歩を進められる人」というのが、安定して生活費を得るために最も重要な要素だと思う。

そういった人間は、まるで花壇に添えた肥料のように周囲に良い影響を与え、多くの人が潤沢に豊かな生活を送れるきっかけになれるように思う

逆に、自己中心的で私利私欲にしか目がない人間は、腐ったみかんのように誤った価値観を周囲に植え付ける存在になってしまう

所詮人だから、所詮仕事だから、所詮自分が可愛いからなど、一面的な物の見え方を、あたかも真理のように周囲に発信し続けてしまう

そんな発信は、精神が未熟な人達の心を侵し、伝染していく

その結果、様々な人間関係は凝り固まり、ストレスが蔓延し、純粋な人の心がどんどんと冷え切っていく

自分は単純に、多くの人が、こんな浅はかで低レベルな問題でつまずき、幸せに過ごせるはずの時間を無駄にして、その結果、鍛錬や勉学にあてるべき時間をもロストし、だから様々な技術や経済が停滞し、最悪人の命まで絶ってしまうというこの日本の現状を見ていられないのだ

AIなど、人類に代わる次なる支配者がこの世に君臨するその日までは、人類が洞穴で生活していた頃からきっと変わらないであろう、純粋で美しく、慈悲に満ちた心を、人類は何より大事にすべきだと思うのだ

車に掲げられたエンブレムのデザインや、ベッドや風呂のサイズ等は、本来人間の幸福度とは一切無縁であるはずなのだ

そういった「初歩的で幼稚な勘違いや思い込み」を出来るだけ解決させて、出来るだけ多くの人が人間らしく幸せな生活を営めるように貢献し、その結果様々な分野で経済が成長し、私が生まれ育った日本という国の生活環境が外国人にも憧れられるようなものにし、最終的にはそういった日本の美しく慈悲に満ちた精神が世界に広まっていく、という結果になることが大まかな私の目標だ

そんな目標の達成に向けて、今年は何か一つでも成果と呼べる結果が出せるように頑張りたいと思う

同じ価値観を持つ人

この世の中には、想像以上にたくさんの人が暮らしている。

身の回りでは誰も知らないような本が、実は何万部も発行されていたり、身の回りでは誰も知らないような動画が、何百万回も再生されていたりする。

つまり、価値観が会う人は必ず世界のどこかに居るという事だ。

誰も自分の事を分かってくれない、自分は一人ぼっちだと嘆いている人は、一体何人の人とコミュニケーションをとったのだろうか。

こんな事を考えたり感じている奴なんて自分だけだなんて、おこがましいにも程がある。まさに井の中の蛙だ。

価値観が合う人間は、この世界に居るどころか、むしろ何千何万と、ものすごい人数が居る可能性の方が遥かに高いだろう。

そういった人と過ごす時間は何にも変え難い程に貴重で、とても有意義で豊かになるはずなので、そういう人に出会えるよう、視野と行動範囲を広く持って生きると良いと思う。

限りなく純度100%で好きなモノに囲まれた生活をしたい

時刻は午前五時、こんな時間に突然飛び起きた。

昨夜、日が変わる直前にブログを更新して、その直後ベッドで横になってから記憶が無い。

本当に記憶が無かったので、昨日残業した仕事の内容や、帰り道で食べたラーメンの事から記憶を辿ったりしていた。

さっきまで夢を見ていた。小・中学生の頃の友人達の夢だ。

少し気が狂ったような、それでいて妙に色気のある、同学年の女子であるKさんが馬乗りに飛び乗ってきて、強引にキスをしてきた。それも、クラスメイトの前でだ。

隣でその様子を見ていたD君は「いいなぁ、美味そうで。それならシコり放題じゃん」と漏らしていた。

その直後、ハッと目が覚めた。

なぜベッドの上に居るのか、全く記憶が無かったから、ここまでの記憶を辿っていた。

用賀のラーメンを食べたこと、出品が終わらない冬物の写真を画像加工していた事、

中学校の頃、「デブの独り言ラジオ」というタイトルで、一人でカセットテープにラジオ番組のようなものを吹き込んで遊んでいたことまで辿っていた。

そのカセットテープは、先日押入れの掃除をしている際に出てきたのだけれど、あまりの黒歴史ぶりに鳥肌が立ち、思わず反射的に捨ててしまったのだけれど、今になって思えばあれは貴重な自分の歴史であり、保管しておくべきだったかなと後悔した。

内容で覚えている事は、たしか始まりは「デブのぉおおお!独り言ぉラジオォ!!!」と、リバーブたっぷりのタイトルコールから始まるんだ。

ちなみに自分は、小中高の頃は非常に太っており、デブキャラだった。東京に来て自炊するようになってから、急激に痩せた経緯がある。

ラジオの話に戻ると、その後はボイスパーカッションを覚えた俺による、一人アカペラのコーナーなど、色々とやりたい事がごちゃまぜになった内容だったと思う。

というか、今思い出したけどボイスパーカッションを覚えたのは高校生の頃だったので、高校生になっても自分はそんな事をやっていたのだ。我ながら呆れてしまうと同時に、そんな自分が妙に誇らしくもある。

改めて考えてみると、自分は基本的にあの頃からベースがほとんど変わっていない。未だにスタジオで自分の歌声をたっぷりと録音し、それを何回も何回も繰り返し聞いて、飽きたらまたスタジオに行って新しい歌声を録音してくるという、そんな生活をしている。

傍から見ればまるで天才か大馬鹿のような人間に思えるかもしれないが、本人としては至って普通の感覚でそんな生活をしている。そんな自分を突然俯瞰で眺めてみると、やっぱり天才か
大馬鹿かどっちかかもしれないなと思った。

自分自身も変なやつだと思うが、よくよく振り返ってみると、自分の過去の友人も変なやつばかりだ。今現在で知りうる限り、「あいつは元々まともで、今も限りなくまともな生活をしているな」という奴は、本当に2人とか3人というレベルかもしれない。

その数少ないまともな人間達から見れば、私の人生などゴミ同然で、一体あいつはいつまであんな事をやっているんだと、ただただ呆れるような存在なのかもしれない。

しかしその一方で、きっと羨ましがっている一面もあるはずだ。

まともな学生時代を過ごし、まともな企業に就職し、結婚して、子供が出来て、というような人生のルートは、私が中学生の頃に「絶対にこの道だけは進んではならない」と心に刻んだベリーバッドルートだ。

今になって思えば、まあそんな生活も悪くないかもと思えるほどに大人になったが、やはり好んで歩みたいルートでは無い事は、今になっても変わらない。

しかし、子供が居る生活と言うのは、もしかしたら悪くないのかもしれないなと、最近になって少し思い始めている。

と言うのも、最近自分の妹が子供を産んだ事と、毎週会っているバンドメンバー(子持ち)が妙にパパみたいな顔になってきているからだ。

妹は元々子供が欲しいと言っていたし、世話好きなので、子供が生まれて大変喜んでいる事は想像の範囲内だったが、やはり血が繋がっている子供というのは、私の視点から見ても、とても可愛く思える。

そして意外だったのはバンドメンバーのほうだ。こないだまで子供のせいでギターが弾けねーと漏らしていたやつが、最近になって発言が180度変わってきているのだ。

朝勤夜勤が連続のシフトで、合間5時間の休憩がある時、往復3時間の家まで帰って食事をするそうだ。なぜなら「子供の顔が見たいから」だそうだ。この台詞は本当に衝撃だった。

あんなギターしか興味が無いような男に、そんな台詞を吐かせる程に子供とは可愛いものなのかと思うと、そんな生活も悪くないのかもなと思えてくる。

しかし、子供が生まれてしまったら、基本的に人生は子供が中心となり、自分自身の事は絶対にお座なりになってしまう事は確実だ。

今の自分にそんな選択が出来るかと言うと、とてもじゃないけど100%クリーンな気持ちではそんな選択肢は選べない。

何か特別な事情があれば受け入れるかもしれないが、少なくとも自らの足でそんな道に進もうと言う気持ちにはなれない。

今はとにかく、自分自身のアートをもっと形にしたい。その上で、リスペクト出来る仲間を集めて、もっともっと最高の作品作りに手をかけたい。

そういった作業の先で、作品も、仲間も、見渡す限り自分の好きなモノばかりに囲まれる生活をするというのが、今の所の自分の目標だ。

別に自分は、周りの友人に変人と言われても何とも思わない。

とにかく、よく分からない「常識」などに囚われて、まったく希望していない標準的なルートに誤って迷い込み、その結果そんな生活が嫌になって、色々な人に迷惑を掛ける事だけは絶対にしてはいけないなと思う。

日常|はかせ可愛すぎワロタ

いままで当ブログでは、自分自身の作品作りに繋がるようなメモの意味合いで日記をつけていたのだけれど、突然気が変わったので、今日からジャンル無視で色々な事を書いていこうと思う。

関心度が高い物事の方が筆の進みが良いので、とりあえず思い当たる事をと探してみると、最近では「日常」というアニメが関心事の第一候補だ。

自分はバンドや音楽の他、バイクにウイスキー、葉巻にギャンブルと不良ちっくな趣味が多いと思われがちだが、基本的には根っからのオタクなので、アニメや漫画は人一倍、いや、2倍3倍でも済まないくらい、色々と見ている。

先日の三連休は、計算してみると合計30時間もアニメを見ていた。1クールのアニメを2作品、2クールのアニメを2作品見て、更にプラスαで合計60話以上も見ていた。1日10時間は我ながら相当なハイペースだと思う。

話を戻すと、最近自分が大変気に入っているアニメ、それが「日常」というアニメだ。

アニメの世界には「日常系」というジャンルが存在するが、そうではなく、「日常」というタイトルのアニメだ。

何が面白いのかを説明したいのだけれど、特に、普段アニメを見ない人には中々伝えづらい内容となっている。

その魅力を一言で言うと、「登場するキャラクターが可愛いから」なんだけれど、いわゆるアニメを見ない人が想像する「そういう目」で見ているわけでは決して無い。

ここが非常に伝えづらいから、人とアニメの話をする時は非常に気を使うのだけれど、すごく分かりやすく言えば、ネコやタヌキを可愛いと思う感情と、ほぼイコールだと思う。

とにかく、見てもらったほうが早いと思うので、youtubeに上がっている動画の中からお勧めを紹介していこうと思う。

まず始めに基本仕様を伝えておくと、このアニメは、いわゆるサザエさんやドラえもんのように、話が単話で完結するタイプのアニメだ。

まず、再生回数を見ていただきたいのだけれど、なんと1000万再生を超えているのだ。

youtubeに疎い人に説明すると、一般的な人気ユーチューバーの投稿では100万再生を超えると、まずまず良い結果だと言える。500万再生ともなれば、そのチャンネルを代表する動画レベルだ。

そして1000万を越える動画というのは、海外の超大物アーティストの大ヒットナンバーレベルの動画である。恐らく、こういったアニメにアレルギーがある人も多いと思うが、すくなくともこの作品は、日本国内に留まらず、海外にも数多くのファンが居るという事を理解して頂きたい。

とは言え、前半で、ゆっこ(おさげじゃない子)が発した「どこからバレーボールが来ても良いように構えてるだけですよぉ」でクスリともしなかった人は、今すぐにブラウザの戻るボタンを押すべきだと思う。

先程の動画は、「日常」の中でも名作と言われる回(ドラゴンスクリュー回)なのだけれど、もう一つ有名な回がある。それが、こちらの「焼き鯖回」だ。

この二話を見て、何かグッと来るものを感じれた人は、是非本腰を入れて最初から見て欲しい。恐らく、確実に後悔はしないと思う。今ならdアニメで全話視聴可能だ。アマゾンプライム for dアニメ でも、当然視聴可能だ。

この2話が有名なんだけれど、自分の結論は、「つまりは坂本とはかせが好きだから日常が好き」という形になった。その2人(1人と1匹)はこちらだ。

紹介はしたものの、正直、この可愛さは全編を通して見ていかないと中々伝わらない部分だと思う。単純にビジュアルが可愛いのではなく、生き様がとにかく愛おしいのだ。

そして、最後にこのアニメの最大の肝、それは非常にクオリティーの高いアニメーションにある。

アニメーションを担当しているのは、皮肉にも先日の事件で一般の人にも多く知られるようになった、日本を代表するアニメーション会社「京アニ」だ。

このアニメはNHKで放送されるという異例のアニメではあるものの、ワンピースやポケモンといったタイトルに比べれば、その知名度は天と地ほどの差があるだろう。

しかし、アニメーションへのこだわりは、それこそワンピースやポケモンの比ではない。本当にアニメが好きな人に向けて、京アニが本気出して作った作品だと思う。

NHKで放送されるという事で制作費にゆとりがあったのがあるのかもしれないが、とにかく、どうでも良いようなシーンに、とてつもないクオリティーのアニメーションをぶち込んでくる。

京アニのスタッフは、本当に技術もセンスも半端じゃなかったと思う。それだけに、先日の事件は本当に残念だ。

自分は「罪を憎んで人を憎まず」という考えの持ち主なので、犯人を一方的、一面的に憎んだり、許さないというような感情は持ち合わせていないが、被害にあった方々は本当に気の毒だし、日本を代表する優秀なアニメーターが数多く亡くなってしまったのは、本当に何にも変えがたい大きな損失で、心の底から残念だなと思う。

特に、京アニと言えば自分は「小林さん家のメイドラゴン」も大好きで、2期が決定して大変楽しみにしていたのもあり、あの事件は本当に残念だと思った。

失ってしまったクリエイターは帰ってくることはないけど、新たに入社するスタッフの人達の手によって、またそれを超えるような作品が京アニから生まれてくることを祈るのみだ。

という事で、いかがでしたでしょうか。最後は思いがけず暗い話題になってしまったけれど、京アニ作品を紹介するとなると、どうしても避けては通れない話題だし、真剣に考えないといけない事だから、どうか気を悪くしないで欲しい。

それにしても自分は、普段は比較的無口なのにも関わらず、自分が関心がある話題になったとたん、ペラペラとマシンガンの如く喋りだすので、本当に気持ちが悪いのだけれど、やはり自分の好きなアニメともなると、こんな文章量など一瞬で書き上げてしまう程に話が止まらず、我ながら大変キモいなと改めて思いました。

こんな感じで、自分の好きなものをブログとして残しておくと、後で自分で見返した時に、そういやあん時あんなアニメ見てたなぁ、そしてあの頃はあんな事考えていたなぁとか、貴重な記録になるので、今後もポツポツと書き記していこうと思う。

それでは本日の日記は以上です、さようなら。

by CHACO