過去の文章を色々投稿しました

当ブログは、現時点ではどこにもリンクを貼っておらず、誰にも周知せずに更新しているため、閲覧者は皆無のはずなので、お知らせ的なブログは更新していなかったのですが、奇跡的に自然検索で入ってきた方もいるかなと思い、一応お知らせしておきます。

自分の文章を整理したく、スマホのメモ帳や、非公開アカウントのインスタなど、散り散りに投稿していた文章を、こちらのブログに投稿し直しました。

執筆していた時系列がバラバラだったり、同じようなテーマで書いてる文章もあったりして洗練されていないのですが、良かったら読んでみてください。

昔のメモ帳なんかを漁ると、謎の恋愛語りの文章だとか、「~なのです」のような無駄に丁寧語の文章があったりと、鳥肌物の作品が点々とありゾクゾクしました。

じゃあ、このブログの投稿している文章はゾクゾクしないのかと言うと、不思議なことに現時点ではゾクゾクしないんですよね。

多分、何らかの物書きの方なら分かるかもしれませんが、自分でも境界線を引きがたい不思議な美意識や価値観などがあって、他人から見たらゾクゾクするような文章も、なぜか平気だったりするんです。

逆に、他人から見たら普通の文章も、自分視点で見るとゾクゾクするものもあったりと、人間の心は不思議だなあと思いました。

それにしても思うことは、自分は文章を書くことと、ギターを弾いて歌を歌う事だけは、唯一飽きが来ないコンテンツなんだなと感じました。

僕は絵を描いたり、写真を撮ったり、何だか他にも色々と手をつけていますが、それらはちょっと自分の中ではサブ的なコンテンツというか、しばしば飽きが来やすいんですよね。

非公開のインスタに投稿していたコンテンツは、途中から写真を撮ったり絵を書いたりするのがダルくなって、投稿しなくなってしまったので、今回を期にインスタは卒業し、ブログのみに専念し、もっと気軽に文章を投稿できる環境を自分で構築しようと思います。

幻を愛していた

「人生って何だろう?」 そんな風に疑問に思った14歳の頃から、私は人生とは何なのか、33歳となった今日まで、自分なりに深く考え続けてきた。

その道の途中、私は何度も真実のような物に出会ったが、その度、それらは幻のように消えていった。

そして、また1つ大切にしていたものが幻へと変わった瞬間、私は気がついた。

この世界には真実など1つも無く、私はずっと幻の影を追いかけていたのだと。

しかし、その事に気づいた後も、私の幻に対する愛情は消えなかった。

私は、今までずっと幻を探し、幻を愛し続けていた事に気がついたからだ。

幻とは、実体が無いのに、あるように感じる物の事を指す。

私が世界で一番大好きな人は母親だが、そんなかけがえのない感情ですら、ただ単に私の脳内で何らかの現象が起こっているだけの事であり、つまりは幻なのだと気がついた。

しかし、それを知った後でも、私の母親への愛情は消える事は無かった。

私は、幻を愛しているんだ。

ほんの少しのトラブルで、消えたり、忘れたりしまうような記憶を、私は心から愛し、大切にしている。

お金や土地、身分など、実体がある魅力的なものはたくさんあるけれど、本当に大切なものは全て心の中にある。

たくさんのお金や土地があっても、どんな高い身分に身を置いていても、心がそれに満足出来ていないのであれば、幸せとは言えない。

逆に、それら全てを持たざる者であっても、心から幸せを感じているのであれば、それは幸せな人生だ。

つまり、心が映し出す幻こそが、この世界の全てだ。

実体のある物が無いと嘆いたり、怯えたりする必要はない。

目に映る物にとらわれず、心に映る幻に意識を傾け、深い愛情を注いでいく事こそが、幸せな人生を歩む為にとても重要な事だと私は思う。

罠に掛かるネズミ

ソロリソロリと餌に前足を伸ばすと、 ネズミの前足が粘着シートに絡まった

ネズミは慌てて粘着シートから前足を外そうと、 懸命にシートの外に向けて体重をかけた

けれど、それが良くなかった

少しずつ、ゆっくりと慎重に体重をかければ、きっと外すことが出来たのだけれど、

慌てて体重をかけたものだから、足が滑って体全体がシートにベタンと倒れてしまった

こうなってしまうと、もう、どうにもならない

無機質な紙製の板が床に叩きつけられて 「パタンッ」と静かに音が鳴った瞬間、

ネズミの命がこの場所で途絶えることが決定した

振り返ってみれば、彼は父親と母親の交尾によってこの世に産まれ落ちた

そこから様々な土地を渡り歩き、様々な苦難を乗り越えて今日まで生き延びてきたのだけれど、

つい先程、たった1秒間の中で起きた些細な判断ミスによって、そのストーリーは終幕を迎える

家族や、友人や、花も、線香も無い、薄暗い屋根裏の中で、

その命は静かに消えようとしていた

人は夢の中でしか生きられない

人以外の生き物達、猫や鳥や、羊に熊、彼らは皆、現実の世界で生きている

食うものが無くなれば飢えて死ぬ事を知っているし、水が無くなれば干からびてしまう事も知っている

たった一匹で生きていかなければならない事も知っているし、生きることに意味など無いことも知っている

しかし人間は、現実の世界で息をしながら、日々夢を見て暮らしている

国内で暮らす人であれば、飢えや渇きの苦しみを知る人はほぼ居ないし、永遠の愛も、自分の存在意義だとか、この世に生まれてきた意味だって信じている

多くの人が神様を信じ、来世を信じ、それを励みに今日を生きている

幻想を抱き、幻の中で死ぬことが目的なのだとしたら、人間の生きる道とは何なのだろう

命って何だろう

命って何だろう

子供の頃の私は、漠然と、この命には何らか意味があって、これからたくさんのドラマを経験して、この命に与えられた使命のようなものを果たし、満を持してこの世を去るものだと思い込んでいた

しかし、果たしてそれは本当だろうか

私のこの命は、ほんの一瞬の判断ミスによって、いとも簡単に消えてしまう脆い鼓動だ

こんなチープな命に、そんな大それたドラマや、使命が与えられているとは到底思えない

私はただ猛然とこの世に生命を与えられただけで、それ以外は何も用意されていないと思う

それでも私達人間は、何かを信じずには生きていけない

恋人や家族、夢、アート、宗教、友情、愛情、何ならそこらの石コロや、木の枝だって構わない

その対象が本当に信じられるものなのかどうかよりも、自分が心底信じられるかだけが問題だ

なぜならこの世には、本当に信じられるものなど一つも存在しないからだ

今日までに人間は、そういった矛盾を解決すべく、自分達の手で信じやすい対象物や価値観を構築してきた

しかし、そのほとんどは、真実から目を逸らし、事実を有耶無耶にして都合の良い解釈をしたようなものばかりだと思う

そういった考え方が間違いだとは思わないが、少なくとも私は、真実を直視した上で、命の在り方について考えていきたいと思う

誰にすがったりもせず、場合によってはたった一人でこの世を生きていく事も覚悟し、納得のいく生き方をしたいと思う

自分の意思に忠実に生きていきたい

自分の信念に真っ直ぐに生きていきたい。

例えそれが異端であっても、圧倒的に少数派の考え方であったとしても、自分の信じた事に真っ直ぐに生きていきたい。

力では集団には敵わない。

けれども、自分の信念であったり、志は、どんな権力者やグループにも犯す事が出来ない唯一の聖域だ。

例え夢に敗れ、誰に嘲笑われようとも、最後まで自分の意思に忠実に生きていきたいと思う。

ヘラジカの親子

狼の集団が、ヘラジカの親子を襲う動画を見た。

ヘラジカは、体こそ大きいものの、牙などは持たない為、威嚇以上の抵抗が出来ない。

直にヘラジカの子供は狼達に囚われ、食べられてしまった。

我が子の死を悟ったヘラジカは、寂しそうにその場を去っていった。

ヘラジカの子供はもういない。

昨日まで二匹で仲良く水を飲んだり、草原を走り回ったりしていたのに、今日から突然、一人ぼっちだ。

暗い夜も、眩しい朝も、ずっと、ずっと一人ぼっちで過ごしていく事になる。

生きることは、とても大変だと思った。

人生の最後に確実な死が待っているというのは、これ以上無い人生の救済処置だと思う。

どんな金持ちも、有名人も、誰もが間違い無くいつかは死ぬ。

どんなに過ちを犯そうとも、最後には間違い無く死ぬ事が出来る。 「死」さえ受け止められてしまえば、人生は楽しい事だらけだ。

誰と比べる必要も、競い合う必要も無く、何を我慢する必要も、遠慮する必要も無い。

生きる幸せを見出す為には、まずは死と深く向き合って観察する必要があると思う。

美人と不美人

これは日本だけなのか、海外も同じなのかは分からないが、ビジュアル至上主義があまりにも横行し過ぎなように思う。

これは勝手なイメージなのだけれど、昔の時代に「美人」と呼ばれていた女性は、単に見た目が美しいだけでなく、身振りが美しかったり、言葉遣いが美しかったり、そして何より心が美しかったから「美人」と呼ばれていたのではないかなと思う。

現代の日本には大人数の女の子アイドルグループが乱立され、アニメなどでも萌え絵の女の子が溢れ、そういった影響かどうかは分からないが、単に見栄えが良いだけの女性が「美人」と呼ばれているように感じる。

その結果、男性は見た目が良い女性ばかりを追いかけて、女性は見た目を良くしようとばかり努力する。

心は、どこへ行ってしまったのだろうか。

もちろん全員がそのような思考では無いと思うが、男女関係なく、私と同じような疑問を抱く人は少数派なのではないかなと思う。

美人の「美」という字は、見た目の美しさだけでなく、美しい心の「美」も含まれるべきだと私は思う。

見た目を美しく保つ事も重要だが、やはり人間は心の美があってこそ、初めて豊かな人生が送れるはず。

例え見た目が整っていなくとも、年老いたとしても、ブレない志をもった女性、動物や植物を愛せる女性、人の心が分かり思いやりのある女性は、紛うことなき「美人」だと私は思う。

年収1000万円

年収1000万円は、多くの日本人の目標であり、憧れだ。

それは何故かと言うと、日本人の平均年収が400万~500万円だからだろう。

幸せは、他人のそれと比較する事で実感をしやすい。

比較的高価な腕時計や、比較的高価な車に幸せを感じているわけで、その時計や車を所有する事自体には、そこまで価値を感じていない事は多い。

恐ろしく高価な時計や車を買う人は多いが、この時計は何年に発明された何とかという技術でどうのこうのだとか、このエンジンはあのレースで使用された何とかだとか、そんな事を言う人は稀だと思う。

そういった比較による幸せの感情で、たくさんの物が売れているし、それによって経済が回っている事も事実なので、そういう何もかもを否定するつもりはないが、個人的にはそういった考え方は非常に浅はかで、人生の豊かさの上限を自分自身で著しく下げてしまっているように思う。

生きることは楽しい。

最高に耳の肥えた職人が作ったギターを弾くことも出来るし、大好きな街の風景をお気に入りのカメラとレンズで写真に収める事も出来る。

自分好みにカスタマイズしたバイクで海沿いを走ったり、お気に入りの革ジャンを着て、オシャレなバーでウィスキーと葉巻を楽しんだりする事も出来る。

それらが、自分の大好きな友人や家族と一緒なら尚良い。但し、ひとりぼっちでもそれはそれで悪くない場合も多いのだが。

とにかく、幸せは何なのかを考える時には、周囲を見渡すのではなく、自分自身とじっくり向き合ってみると良いのではないかなと個人的には思う。