人生って何だろう

高校生の頃は、毎日そんな事ばかりを考えていた。

人によっては、そんな事考えてもしょうがないだとか、若さ故の何とか等、そもそも深く考える事が間違いのように言われるが、人間として生まれた以上、いくつになってもじっくりと向き合うべきテーマだと思う。

また、人間の命は、死んだら天国に行くとか、生まれ変われると言った、他の生命体と違う特別な存在だというような考え方もある。

それは、事実がどうであるかはさて置き、少なくとも私は、そういった考え方自体を否定はしない。

なぜなら、世の中には心が繊細で弱い人間が数多く居て、そういった人達にとっては、仮に嘘だとしても、そういった考え方を信じていないと生きていく事すら困難になる場合があるからだ。

要するに「事実をウヤムヤにする」という作業は、意外にも人間の暮らしには必要不可欠なのだ。お酒なんかもその類だと思う。

人間は他の動物と比べて頭が良すぎるから、他の動物とは違うユニークな生活スタイルになるのだと思う。

そういった事を全て取り除いて、もっと「事実」という視点で人生を考えてみると、人間の生涯は、コバエの生涯と比べて何ら変わらないものだと思う。

コバエの寿命は約1~2ヶ月で、確かに人間はその何百倍も生きる事が出来る。

しかしそんな事は、何百億年もの歴史がある宇宙の上ではあまりにも些細な事だ。

私達がシマウマとシマリスの生涯にさほど違いを感じないように、もっと広い視野で考えれば、人間とコバエの生涯もさほど違いは無いはずだ。

その話から、「深く考えてもしょうがない」だとか、「人間だけは生まれ変わる」のような事に話をすり替えたり、事実をウヤムヤにするのではなく、「人間もコバエも同じ」という話をベースに、人生は何なのかを深く掘り下げて考えていきたい。

集団行動と単独行動

動物には、集団行動をするものと、単独行動をするものがいる。

例えばシマウマは集団行動をする動物だけれど、遥か昔は単独行動をするグループもあったらしい。

なぜ今では単独行動をするシマウマが居ないのかと言うと、繁殖して生命を繋ぐという意味で単独行動が個性に合わず、絶滅してしまったからだそうだ。

集団行動の最大のメリットは、異性がすぐ近くに居る為、繁殖しやすい事らしい。

人間界にも集団行動を好むグループが居るが、確かに繁殖し易そうだ。

逆に、単独行動の場合は異性が見つけ難いが、そんな環境での出会いはとてもロマンチックだなと思った。

集団行動のグループにも、単独行動のグループにも、それ相応の文化とルールがある。

その2つに優劣をつけてもいけないし、価値観をごちゃまぜにしてもいけないと思う。

孤独は純粋な心を蝕んでいく

嫉妬や僻みで心を安定させようとしていく内に、純粋な心はどんどんと鈍感になっていく。

本当は心にも無い前向きな考えや、一見辻褄の合った夢なんかを語っていく内に、心はどんどんと疲弊していく。

孤独は、恐い。

人生は孤独だから、この恐怖は誰にも解決出来ない。

友人や恋人、家族にも解決出来ない。

人生は孤独だと気づかず死んでいく人も居るが、気づいてしまった以上、たった1人、自分で解決するしかない。

だけど、孤独から逃れる為に、純粋な心を切り売りしてはいけない。

純粋な心は人生の宝だ。

純粋な心があるから、人生は美しいし、楽しいし、愛おしいのだと思う。

それに孤独は、純粋な心を育む為に最も重要な栄養だ。

孤独を前にして、逃げたり、誤魔化したりするのではなく、しっかりと対峙して、それが何者なのかをじっくりと観察する必要がある。

2019年は、どんな時代だろうか

かつて日本の音楽が盛り上がっていた時代、
ヒットチャートにはこの国の世論を示すような歌が多く並んでいた

戦後まもなくは、皆で前を向いて、根性で突き進んでいこうというような
そんな価値観が良しとされていて、みんなその道に向かってまっすぐ進んでいたのだと思う

2019年、今の世は何だろう

命を削って仕事をして、根性で生き抜く時代は終わったのだろう
不合理な価値観や常識に、振り回される必要も無くなった
集団行動から外れても、それなりに楽しいことが多い時代になった

個性が尊重されるようになり、各々自由に生きているせいで、
誰もが納得するような大筋の生き方なんてものも見当たらなくなった

世間では一応流行というものがあるが、
ミーハーで視野の狭い一部の人間が、相変わらずマスコミに振り回されているだけで、
何か本当に国民の心をひとつに取りまとめるような道が無くなった

2019年は、自由で孤独だ

単独行動の選択肢が増えたりして、生きていく事が比較的容易になったから、
家族との絆なんてものも少し弱くなったのではないだろうか

利害関係の一致によって結婚したりだとか
これまでの常識を何となく受け入れて家族と言う体裁を作ったりだとか

色々便利な時代にはなったが、情報も洪水状態で
何が何だかさっぱり分からない、混乱状態だ

誰かの用意した道を歩くような時代は終わり、
それぞれが、それぞれの価値観で、それぞれの道を発見する必要が出てきた

その為に、まずは全身で自由を感じる必要がある

その気になれば何だって出来る
出来ないことなど何もない

2019年は、自由で孤独だ

たった一人で死ぬ運命

たくさんの人達が、昨日までの事を懐かしんでいる
たくさんの人達が、昨日までの過ちを悔やんでいる

その想いは誰の目に留まることも無く
いつも孤独な心の中で渦巻いている

あなたが大好きなあの人も、あなたと同じように孤独を感じていて
あなたの事を大好きな人も、同じようにあなたが孤独を感じている事を知っている

それは私達が生まれてくる、ずっとずっと昔から続く運命

目を覆う事は出来ても、拭い去る事は出来ないし
気づかない事は出来ても、忘れ去る事は出来ない

互いの孤独を愛し合う事は出来ても、分かち合う事は出来ない

私達は、たった一人で生まれ
たった一度も他人の孤独と交わる事無く
たった一人で死んでいく運命

もしあなたが、孤独を前にして、
不安や、恐怖を感じているのであれば、
それは、あなたが純粋な心の持ち主だから

純粋な心は、あなたに不安や恐怖を与え
それと同時に、あなたの大好きな人に降りかかる不安や恐怖を
感じ取る事が出来る

だから絶対に、純粋な心は捨ててはいけない

一途に人を信じて生きたい

世の中には悪い人も居て、誰もを信じることは出来ないけど、良く相手を観察して、その上で自分が信じると決めた人の事は、一時も疑わず、黙って信じて生きていたい。

但し、安易に人に頼ってはいけない。

信じるという事は、何らかの恩恵が途絶えた時も、何も変わらず信じ続けられるような関係だ。

その何らかの恩恵が途絶えた時、不満を感じたり、関係を破棄しようと思うなら、それは信じているのではなく、利用したり、すがったりしているだけだ。

ギブアンドテイクを求めてもいけない。

例え相手からの支援が途絶えたとしても、こちらは変わらず与え続け、信じ続けていたい。

信じ合うことを求めてもいけない。

何の見返りも求めず、自分自身の不安や孤独は全て自分自身で制御して、信じると決めた人を、ただ一方的に信じ続けるだけでいい。

そうやって一途に人を信じる為に、まずは、目の前に転がっていて、今にも掴めそうな自分自身の幸福を、全て放棄した方が良い。

なぜならそれは幻で、自分自身で拾い上げる事は出来ないからだ。

自分自身の幸福は、自分以外の誰かに拾って与えてもらう必要がある。

だからこそ、自分が信じると決めた人の、その足元に転がっている幸福を拾い上げて、何も見返りを求めず、一方的な善意でもって、その人に渡してあげると良い。

それが一途に人を信じるという事であり、それが自分自身が幸福になる為に最も重要で、唯一の方法だ。

そんな風に一途に信じられる人は、世界にたった1人だけでも良い。

たった1人でも見つかったのだとしたら、それは何とも比較が出来ないほど、大変に幸福な人生だと思う。

愛されたいと願う事は罪なのだろうか?

恋人や家族、両親に友人、人間はこの世に生をうけると、様々な人達と関わり合って暮らすことになる。

その中で自分が周りの人から愛されたいと願う事は、人間として当然の感情のはずだ。

しかし、その愛されたいという欲求が通らなかった時、人間の心は絶望し、疑心暗鬼になってしまう時がある。

また、愛されたいと思う余り、相手の機嫌や心理を探り、自分の本音を隠し、愛される為だけに用意した言葉や行為ばかりを選んでしまったりもする。

要するに、愛されたいという感情は、自分の冷静な判断の妨げになり得る。

愛されたいという感情が無ければ、平静の心のまま、人に無償の愛を与えることも出来るし、誰かからの愛情が突然途絶えてしまった時も、一人で冷静に次の進路を見つけ出す事が出来る。

では、愛されたいと願う事は罪なのだろうか?

誰かに愛していると告げられた時、人の気持ちはどう動くのだろうか。

それは、言葉がどうとかではなく、言われた相手が自分にとってどんな存在なのかによる。

全く無関心な相手の場合、相手の希望に沿うことが出来ない息苦しさや、断り方次第では自分の身に危険が及ぶ可能性あるという恐怖、自分に対する若干の自信の芽生えなど様々な感情が生まれる。

自分自身も好意を寄せている相手であれば、心は充実し、安堵し、愛する人と一緒に居るという安らぎの心になる。

但し問題なのは、人の心は移ろうという事だ。

無関心だったはずの相手に対して、いつからか好意を寄せるようになる事もあるし、好意を寄せていた相手が、いつからか無関心になるような事もある。

ずっとずっと未来の人間の世界では、愛情という感情はどのようになっていくのだろうか?

過去を遡ってみると、原人の時代はきっと獣のようにお互いを求めたり、奪ったり、突き放したりという感じだったと思う。

また、天候や飢餓などに震える中、芽生えた強い絆なんかもあったと思う。

要は、時代は変わっても、その辺の人間の感情は、そこまで大きくは変わっていないのではないのかなと思う。

強いていえば、現代では情報が増え、平和な地域が増えた為、より冷静かつドライな人間関係が増えたのかなとは思う。

結論を言うと、人に愛されたいという感情は罪でも正義でもなく、人間にとって極日常的で自然な感情なので、無理に押さえ込みすぎず、とはいえ出しすぎに注意し、丁度良いバランスになるように出力をコントロールして、上手く付き合っていけたら良いのだと思う。

時に出力調整が上手くいかない場合もあるが、人間が時折体調を崩してしまうのと同じように、それもまた人間の姿であり、愛しむべき個性でもあるので、悪や罪とはせず、人間らしく支え合って暮らしていくのが良いと思う。

どっちでもいい

人類は集団行動をする動物だ。

では、誰しもが共通の価値観を持って生きていかないといけないのであろうか?

答えは、全くそんな事は無いと思う。

世の中には流行のファッションや音楽、人気の有名人などが居て、そういった価値観の中で暮らしている人がたくさん居ることは事実だが、そのコミュニケーションを楽しいと思えないのであれば、無理にそのグループに加わる必要は無い。

流行り物を追いかけてはいけないなんてルールも無いし、追いかけなければいけないといったルールも無い。

どんな宗教を信じることも自由だし、どんな仕事をする事も自由だけれど、

唯一、国の法律にだけは触れてはいけない、それだけがルールだ。

法律に縛られているとは言っても、法律は基本的に国民の生活を守ってくれる存在だ。

おまけに、不服があるのであれば物言いするチャンスはいくらだってある。

人生は自由に生きていいし、おまけに法律によって国が生活を守ってくれるというサポート付だ。

そして、集団行動とは言っても、多様性は必要だ。

100人中100人が、Aという病気には耐性があっても、Bという病気が弱点だとしたら、Bの病気が流行ったら集団は全滅だ。

そういう事態を避けるために、人間はありとあらゆる特技と弱点がバラバラになっている。

だからこそ、趣味思考も異なるし、価値観だって異なる。

そういった人間達がグループになるからこそ、どんな異常事態にも負けない強いグループが出来上がる。

流行り物が好きで、それらを好きなグループと一緒に集まっていると楽しいという人は、それはそれで良い。

それらが受け入れられなくて、もっとコアな趣味を持って、少人数で集まることが楽しい人も、もちろんそれはそれで良い。

どっちが正しいなんて事は無いが、どっちかが正しいと結論を出さないと気がすまない人も居る。

しかし、そんな風に他人の価値観が認められない人も、ある意味多様性の中のひとつであり、必要な存在なのかもしれない。

要するに、人生なんて好きなように生きていい、ただそれだけだ。

好きなことをして、好きな人と過ごす、それだけだ。

誰かの目を気にして生きていく必要も無いし、気にしながら生きていってはいけない理由も無い。

常識だとか何とかの、もっともらしい考え方や価値観が地球上には色々とあるが、実は何もかもが不透明で、誰も真実など分かっていないというのが現状だ。

自分は、人間の純粋な心が好きだ。

純粋に家族を愛したり、それらを失って涙を流したり。

何かを不安に思ったり、それを隠すために虚勢を張ったり。

何もかもが美しく、とても愛おしいと思う。

そんな人間の純粋な心同士が共鳴するような、素晴らしい完成度のアートを作りたい。

変わっているかもしれないが、これが自分の個性であり、価値観だ。

きっと少なからず、多様性の一員として世間から必要とされる人物なのだと思う。

美人な人、不細工な人

日本では当然のように美人がもてはやされている。

ほんの数ミリの目の付いている位置や、ほんの数ミリの鼻の大きさで、なぜここまで人の評価は変わるのだろう。

友人や家族を大事にし、草花や動物を愛し、いつも笑顔で明るい不美人よりも、

自分の承認欲求や世間体ばかりに目がくらむ美人の方が優れている理由は、どこにあるのだろうか。

そもそも、ここまでビジュアル至上主義が横行しているのは、日本だけではないだろうか。

日本人は、何となくすごそうなもの、自分よりも上だと思うものに対しては、特に論理や明確な理由が無くとも平伏してしまう癖のある民族なように私は思う。

だから内面など見ず、ただ見た目が美人だというだけで自分よりも優れた存在だと思い込み、それ以上の追及や考察をやめてしまう傾向にあるのだと思う。

逆に、ただ見た目が悪いというだけで、自分より劣ったものだと思い込み、内面など見ず、安易に軽視してしまう場合が多いのだと思う。

当然ながら、そのような考え方は文化人としてはあまりに低脳だ。

パッと見の外見などよりも、その人のもっている知識や道徳心、技術、その他諸々の様々な内面を見て、その人がどういった人間なのかを慎重に判断すべきだ。

要するに、日本人は自分で深く考え、一考し、自分なりの論理を構築し、人生を切り開いていく事がひどく苦手な民族なのだと思う。

だから、見た目というあまりにも安易な情報だけで物事を判断してしまいがちなのだと思う。

何度も言うが、見た目だけで人を判断するという事は完全に誤りであり、あまりにも低脳である事は間違いないのだが、人間は集団行動の中でしか生きていく事が出来ず、そのようなビジュアル至上主義の人間が過半数の社会では、そのルールに従うしかないのだ。

100歩譲って年齢や体型といった部分は、出産など子孫を残す作業において悪影響があるので、見た目である程度判断をしてしまうのは本能という意味で仕方がないと思うが、

ちょっと目の位置が離れているだとか、顔が丸いだのといった所で何もかも判断してしまうのは、同じ人種である身として非常に悲しい気持ちになる。

そんなビジュアル至上主義の日本で快適に暮らしていく為には、ある程度所属するグループを選ぶことも重要になってくると思う。

もし、自分が不細工だからと、たったそれだけの事で毎日暗い気持ちで生きている人が居るのだとしたら、いっそその集団から抜け出し、場合によっては国外に移住する事を視野に入れてもいいだろう。

何度も繰り返すが、人を見た目で判断することはあまりに原始的な考えであり、文化人としては非常に恥ずかしい判断であり、完全に誤りだ。

協調性の無い人間は生きていけない

人間は、孤独から逃れられない事実に反するように、人間同士の協調性からも逃れることが出来ない。

協調性が無い、一人が好きと言っている人達も、必ず誰かと関わっていかなければ生活が出来ないし、完全に誰とも関わらずに生きていくなど不可能だ。

毎日家と職場を行き来しているだけの人だって、交通手段である電車や車、道路、スーパーマーケットやコンビニ、そして勤め先など、全て自分以外の誰かが用意したものだ。

友人や恋人、家族といった関係は解消する事が出来るが、もっと大まかな人間同士の協調性からは逃れることが出来ない。

だから、人間は少なからず、他人と協調して生きていかなければならない。

人間社会は完全に集団行動の社会となっており、単独行動はジャングルの果てにでも行かないかぎり実現出来ない。

ちなみに、はっきり言って自分はそんなに人が好きではない。

本当は友達と遊びたいくせにとか、一人が寂しいくせにとか言われる事もあり、理解してもらえない事は重々承知なのだが、本当にそんなに人が好きではないのだ。

ただ、ものすごく価値観の合う人や、ものすごく自分を理解してくれてリラックス出来るような人との時間は楽しい。

とは言え、もくもくと一人で作品を作ったり、本を読んだり映画を見たり、一人でぶらぶらと街を歩きたい時や、他の気の合う人と会いたい場合もあるので、いつも同じ人と一緒なのは大変だ。

少なくとも、価値観が合わず、自分を理解してもらえない人と居るのは退屈だし、人生は有限なので、基本的にはそういう人との時間はなるべく避けて暮らしたいというのが本音だ

冷たい人間と言われても仕方が無いし、価値観が合わない人との時間も大切に出来る温かい心の人は心から尊敬しているが、残念ながらこればかりは自分ではどうする事も出来ない性格だ。

きっとこんな人間だからこそ出来る仕事もあるだろうし、何らかの形で世間に貢献しているはずなので、世界は広いしこんな人間も居てもいいだろうと大目に見てやって欲しい。

こんな自分だけれど、この世の人達には基本的に全員に感謝している。

道路や建物を作ってくれた人、街の飲食店で料理を作ってくれた人、法律を作ってくれた人、戦争が起こらぬよう工面してくれた人、皆が居るお陰で自分は毎日快適に暮らす事が出来ているし、これは本当に心から感謝している。

感謝しているからこそ、自分は自分なりに世間に役立つ人間になりたいなと思う。

感謝しているからこそ、自分と価値観が合わない人や、自分を理解してくれないような人でも、共に時間を過ごすことは無くとも、陰ながら非常に感謝している。

こういった意味で、協調性を常日頃感じて生きていく事は、とても大事な事だ。

他人と共存していくことに、明確な理由が無くとも煩わしさを感じる気持ちは大変理解できるが、こういった感謝の気持ちを常に忘れない事で人間として正常な生き方が出来ると思う。

もしくは、自分の古い祖先に、猫や狼のような単独行動を好む獣の血が少し混じっているのだと諦めて、協調性からは逃れられない事実を粛々と受け入れると良い。