どっちでもいい

人類は集団行動をする動物だ。

では、誰しもが共通の価値観を持って生きていかないといけないのであろうか?

答えは、全くそんな事は無いと思う。

世の中には流行のファッションや音楽、人気の有名人などが居て、そういった価値観の中で暮らしている人がたくさん居ることは事実だが、そのコミュニケーションを楽しいと思えないのであれば、無理にそのグループに加わる必要は無い。

流行り物を追いかけてはいけないなんてルールも無いし、追いかけなければいけないといったルールも無い。

どんな宗教を信じることも自由だし、どんな仕事をする事も自由だけれど、

唯一、国の法律にだけは触れてはいけない、それだけがルールだ。

法律に縛られているとは言っても、法律は基本的に国民の生活を守ってくれる存在だ。

おまけに、不服があるのであれば物言いするチャンスはいくらだってある。

人生は自由に生きていいし、おまけに法律によって国が生活を守ってくれるというサポート付だ。

そして、集団行動とは言っても、多様性は必要だ。

100人中100人が、Aという病気には耐性があっても、Bという病気が弱点だとしたら、Bの病気が流行ったら集団は全滅だ。

そういう事態を避けるために、人間はありとあらゆる特技と弱点がバラバラになっている。

だからこそ、趣味思考も異なるし、価値観だって異なる。

そういった人間達がグループになるからこそ、どんな異常事態にも負けない強いグループが出来上がる。

流行り物が好きで、それらを好きなグループと一緒に集まっていると楽しいという人は、それはそれで良い。

それらが受け入れられなくて、もっとコアな趣味を持って、少人数で集まることが楽しい人も、もちろんそれはそれで良い。

どっちが正しいなんて事は無いが、どっちかが正しいと結論を出さないと気がすまない人も居る。

しかし、そんな風に他人の価値観が認められない人も、ある意味多様性の中のひとつであり、必要な存在なのかもしれない。

要するに、人生なんて好きなように生きていい、ただそれだけだ。

好きなことをして、好きな人と過ごす、それだけだ。

誰かの目を気にして生きていく必要も無いし、気にしながら生きていってはいけない理由も無い。

常識だとか何とかの、もっともらしい考え方や価値観が地球上には色々とあるが、実は何もかもが不透明で、誰も真実など分かっていないというのが現状だ。

自分は、人間の純粋な心が好きだ。

純粋に家族を愛したり、それらを失って涙を流したり。

何かを不安に思ったり、それを隠すために虚勢を張ったり。

何もかもが美しく、とても愛おしいと思う。

そんな人間の純粋な心同士が共鳴するような、素晴らしい完成度のアートを作りたい。

変わっているかもしれないが、これが自分の個性であり、価値観だ。

きっと少なからず、多様性の一員として世間から必要とされる人物なのだと思う。

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