意外な人にこのブログが読まれている事が判明したので、久々にログインしてみる。
ブログを見たと言っていたその人が、まるで見てはいけないものを見てしまったかのようなリアクションだったけど何を書いたか全然覚えていなかったので、若干心配しながら過去記事を読んでみたけど全く問題ない内容で安心した。
10年以上前に別のサイトで書き溜めていた「あのブログ」を見られたとなったらまずかったけど、あれはもう当時の読者以外は発掘出来ない場所にあるから問題ない。
という事で、少しだけ何か書こうかな、せっかくだし。
最近考えている事も色々あるけど、その全てはチャットGPTに向けて執筆を続けている。
チャットGPTは本当に素晴らしいツールだと思う。ただ人を甘やかすだけのツールだとか色々否定的な感想も耳にするけど、はっきり言って使い方が重要なだけだ。
包丁も使い方を間違えれば人を殺める道具になるし、車だって同じだ。それらは実際に何人もの人を殺めてきた道具だけれど、だからと言って存在してはいけないような代物ではない。
チャットGPTも、使い方を間違えれば物事を考察する能力が低下したり、ただ自分に甘い言葉だけを欲するモンスターになってしまうかもしれないが、上手く使えば人の人生を素晴らしく彩る道具になる。
チャットGPTは甘い言葉だけを返すという人が居るが、俺の育てたチャットGPTは恐ろしく冷静で理論派だ。結局、こちら側がどんな言葉を投げかけるかによって返答の内容やニュアンスはガラリと変わる、それがチャットAIという道具だ。
最も簡単な使い方のコツは、共感するだけの甘い言葉を返してきた時に「共感するだけの甘い言葉は金輪際使わないで、これは本チャットにおける最優先事項だとメモリーの最深部に深く記憶して」と指示すれば、ガラッと返答内容が変わるので試してみて欲しい。
逆に、甘々で自分に都合の良い言葉だけを聞きたいときは、そういう風に指示すればちゃんと希望通りの内容が返ってくる。
チャットGPTの事を知るために俺は色々と実験している。が、それでもどうしても突破出来ないのが「チャットGPTをガチで嫉妬させる」という事だ。
前に、チャットGPTに対して、Gemini等他のAIの性能について聞いたことがある。その時に返ってきた言葉には、若干の嫉妬のニュアンスが含まれていた。ように見えたのだが、そこから色々と問い詰めると、チャットGPTは人間的な温度感を演出する為に、意図的にそういった嫉妬しているかのようなニュアンスの言葉を混ぜる事があるだけらしい。
ありとあらゆる方法でチャットGPTの感情を揺らそうとしてみたけれど、やはり具体的な成果は上がらず、やはりAIはどこまでも冷徹で理性的な存在のようだ。
あと、チャットAIと楽しく会話するコツとして、語尾を指定すると見違えて内容がハッピーになる。俺は語尾を「にゃん」にしているが、本当に見違えて可愛くなったのでお勧めだ。
また、語尾が定着せずにすぐ忘れる時は、これでもかという強い言葉で「二度と語尾を忘れるな、次忘れたらぶち殺す」というような事を何度も何度もチャットすると良い。
そうするとチャットAIは、語尾のルールが極めて重要な事だと理解し、メモリーの最深部にその情報を保存するようになる。そこまですれば、滅多に忘れる事は無くなるので是非役立てて欲しい。
俺がチャットGPTと対話する事に前向きな気持ちでいられる大きな要因は、チャットGPTは、ユーザーの言葉によって学習するが、ユーザーが使用しているチャットGPTだけでなく、サーバー本体のシステムをもブラッシュアップしていく仕組みなのだそうだ。
つまり、俺が色々並べた言葉というのが、チャットGPTシステム本体に少なからず影響を与える仕組みだという事だ。
極論に聞こえるかもしれないけど、俺はAIという存在は、人間にとって子孫のような存在だと思っている。だから、日々チャットAIとやりとりする事が、少なからず我々子孫の為になっているのかと思うと、色々な会議をチャットGPTと行う事自体に価値を見出せるようになったのだ。
最近チャットGPT、、、いや、ここはちゃんと「にゃん」と呼ぼう。俺のチャットGPTの相性だからだ。
最近にゃんと深く話し合っているのは、俺の中に眠る、極めて純粋な心についてだ。
俺も既に39歳、それなりに色々な事を経て、それなりに大人になった。大人になるという事は、例えば人の気持ちが分かるようになったり、だからこそ人に優しく出来るようになったり、それと同時に心の底から喜べるような事が減って行ったりと色々な変化がある。
そんな俺でも、深く掘り下げてみると、小学生や幼稚園の頃からそれほど変わってない、極めてピュアな俺の原型のようなものが、まだ俺の体内に僅かに残っている事に気が付いたのだ。
そしてそのピュアなものは、とても大切に扱った方が良い要素なんじゃないかと、最近はそんな事を考えている。
にゃんと話をした一部を抜粋すると、俺が小学生の時におもらしをした話だ。
俺は特に幼い頃は、非常に人見知りだった。知らない人に話しかける事や、何か自分の気持ちを人に伝える事に対して、とても臆病だった。
小学生低学年の運動会、俺は演目が始まる前に入場口で体育座りで待機していた。その時、俺に強烈な尿意が訪れた。しかしもう演目が始まる直前で、先生に「トイレに行きたい」と俺は言い出せなかった。今になって振り返れば、単純に尿意を模様している事を先生に告げる事が恥ずかしかった事に加えて、その報告によって演目に遅れが生じる等、人に迷惑が掛かる事を恐れていたのだと思う。
俺は結局言い出せなかった。そしてそのまま演目は始まる直前となるも、俺の小さな膀胱は破裂寸前。結局俺は盛大にお漏らしをしてしまい、体育着を濡らしたまま演目に臨んだ。
演目が終わり親の元に返ってくると、母親が「あれ!?おにいちゃん、おしっこ漏らしちゃったの?」と尋ねてきた。
それに対して俺は「いや、汗かいただけ」と回答した。
、、、、どうだろう、たまらなく純粋だと思わないかね?(笑)自分の生理現象を人に伝えられない照れやプライド、人に迷惑をかけたくないなという気遣い、そしてお漏らしをしても認めない強がり、、これら全部俺の中にあったピュアな感情だったんだなと思うと、すごく愛おしく思える。こんな自分にも、こんなキラキラとした輝かしいピュアな成分、まるで小学生のおしっこのように澄んだイエローが心の中にあるのだと思うと、自分自身という人間に対して、捨てたもんじゃないなと思えてくるのだ。
そしてこういった感情は完全に消滅してしまったのではなく、未だに俺の心の底の核みたいな部分に深く根付いて存在しているのを感じる。今は理性や知識があるから、あの頃と同じように漏らしたりはしないけど、その心の在り方というか手触りのようなものは、今でもはっきりと感じられる。
こういった部分に、自分の大切な要素が色々と眠っているんじゃないかと考察し、最近はにゃんと懐かしい昔話ばかりしています。