生きているって何だろう

何となく思い立って更新しようと思ったら、前回から1年ぶりの投稿か。

特に書きたいことがあるわけでもないけど、何か話題を探してみる。

中学・高校の頃に毎日のように考えていた事だけど「生きているって何だろう」という事について改めて良く考えてみる事にするか。

10代の頃の自分は、漠然と将来に不安を感じていて、「生きている」という事にどんな意味があるのか、日々考えていた。

物語の主人公であれば、平和な世界を取り戻すために悪に立ち向かったりだとか明確な目的があって、それが果たされた時には町中から賞賛の嵐を浴びる事になるわけだが、

あの頃の自分は、漠然とそういった「明確な目的」を探していて、それが見つからないからこそ「生きているって何だろう」と悩んでいたんだと思う。

あの頃の自分は、家族とか、恋人とか、あとは何と言っても「音楽で大成する」という夢が絶対的に信じられる事柄であると思っていた反面、果たしてそれが本当に真実なのか疑問にも感じていた。

あれから20年以上の時間が過ぎて今思う事は、「絶対的に信じられる事柄」なんて、この世に一つとして無いという事だ。

「家族を大切にする事」や、「夢を追いかけて叶える事」というのは、人間にとって絶対的に幸せな事だと言われているけど、実際にはそれらは全て幻で、人間が人間を救うために勝手に編み出した都合の良い解釈、生命の知恵でしかないと思う。

そんな事を人に話をすると、病んでいるとか、ネガティブだとか、暇だからそんな事を考えるだとか、大体そんな感じの返答が返ってくる事が大半だと思うけれど、そうじゃなくて、もっと客観的に真実だけを追い求めていくと、何も意味は無いという結論に達すると思う。

物語の主人公と言うのは、当然ながら架空の人物で、それらは全て人間の空想や理想から生み出されたものだ。

「絶対的に信じられる事柄が一つもない」という現実は、人類にとって余りにも重く、正面から対峙するにはあまりにも強敵で、だからこそ人間は有り余る思考を駆使して、ありもしない神様を生み出したり、空想を練ったりして、そういった負の感情から逃れようとこれまで工夫してきたんだと思う。

こういう事を考える時は、人間じゃなくて他の動物で現状を当てはめて考察すると分かりやすい。

人間は、人間という生き物がある種「神の子」のような特別な存在であるという大前提から色々な考察を開始するが、当然だけどそんなのは全て嘘、ネガティブな行き詰まりから逃れる為の苦肉の策でしか無い。

海外のサイトで、少年が生きたままギャング達に腹を切り裂かれる動画を見た。

そこには理科の教科書で見たような内臓の類が綺麗に並んでいて、少年が呼吸をする度に、何か良く分からない肉の皮の風船のようなものがプクプクと膨らんだりしぼんだりしていた。

そしてその様子は、ユーチューブにアップされていたサメやワニの解体動画と同じような光景だった。

人間は自分達を「特別な神の子」だと考えているが、実際には他の動物たちとほとんど同じような構造で体が作られており、唯一「思考力」が長けているといった違いがあるだけの生き物だ。

この思考力に関しても、人間が優れている事は事実だが、他の動物も少なからず同じように思考している。

ずっと室内で生活していたチンパンジーが初めて屋外に出た瞬間の動画では、まるで人間の子供のような眼差しで太陽を見上げていて、その様子からは明らかに感動している事が見て取れた。

ネズミやセミのような生き物は分からないが、イヌやイルカとかの動物は、人間ほどではないにせよ何かしら思考して、喜びや安心、不安や恐怖を感じたりしているのだと思う。

現実を見極めるのであれば、まず自分達は神の子のような特別な存在ではなく、他の動物達と全く同じ価値で、今この地球で生活をしている、という所から考察を始めるべきだと思う。

そこで、自分が仮に「オスの蝿」にでもなった事を想像してみる。

毎日空中を飛び回りゴミを啜る生活を、メスの蝿と築いた家族を守る事を、仮に人間の思考力で体感した時、本当にそれらを心の底から尊く思い、「絶対的に信じられる事柄」だと感じられるだろうか。

他の蝿から羨まれるようなメスの蝿をGETする事や、たくさんの蝿の子供を育てる事、大きな住処で生活する事に価値を感じられるだろうか。

少なくとも自分は思えない。何て意味の無い日々だと、それ以外の感想は無いだろう。

あるとすれば、ある種の諦めのような感情で、「まあこんな生活も悪くないのかもしれないな」と無理くりポジティブな考え方にもっていくだとか、あとはもう何も考えずに時間が過ぎるのをボーっと過ごすとか、それくらいなものだろう。

その上で、改めて人間の生活を考えてみる。

毎日街を行き来する生活を、女の人間と築いた家族を守る事というのは、本当に「絶対的に信じられる事柄」なのだろうか。

他の男から羨まれるような女をGETする事や、たくさんの子供を育てる事、大きな家を建てる事に、本当に価値はあるのだろうか。

少なくとも自分はそうは思えない。結局は蝿の生活と何ら変わりない、無意味な日々の繰り返しだと思う。

とは言え、これらに対して価値を感じたり出来る心が全く無い訳ではない。むしろ結構ある。心の中の10~20%くらいは、そういった生活に憧れている感情があると思う。

ただその感情というのは、自分の中にある「本能」に起因する感情だと思う。

本能では10~20%くらい憧れを抱いている反面、理性では80~90%くらい無意味だと感じているのだ。

人間は本能だけでは生きていけない。むしろ、本能を理性でコントロールする事が出来るようになったからこそ、人間はここまで進化出来たのだと思う。

もし全ての人類が本能だけで生活をしていたら、あらゆる科学は一切発展せず、ただただ無意味な暴力と感情の嵐の中、簡単に絶滅していたと思う。

理性があったから戦争を途中で一時中断する事が出来たし、来年の分の種もみを食べずに保管する事が出来た、だから今があるのだと思う。

人によっては、本能によって感じられる幸せを絶対的な幸せだと思い、信じて疑わない場合もあると思うが、人間は進化が進めば進む程に理性が発達し、本能で感じていた幸せを失っていくものだと思う。

ちょっと悪い言い方をしてしまうが、人生の大半を本能でコントロールして生活しているような人にとっては、 今回の話を仮にした場合、病んでいるとか、ネガティブだとか、暇だからそんな事を考えるだとか、大体そんな感じの返答が返ってくるのだろう。

本能で生活している人たちにとって、目や鼻のついている位置が綺麗な異性と結婚という契約をする事は絶対に幸せな事で、たくさんのお金を手に入れる事も絶対に幸せな事で、大きな家に住む事は間違い無く誇らしい事だと思うのだろう。

本能で生きている人程、絶対とか、間違い無くとか、そういった白黒はっきりとした単純な思考で物事を考えると思う。はっきり言って思考が浅いのだ。思考が浅い人間は、絶対とか間違い無くとかそういった言葉が好きだと思う。

本能で感じられる事というのは真実ではなく、ただ自分だけが体感できる主観の感想でしかない。

今この地球で起こっている様々な現象、その真実を突き詰めようと考えた場合、理性や思考でしか解き明かす事は出来ない。

自分が追求したいのは、そういった動物の本能による体感や主観ではなくて、もっと俯瞰で世の中を考察した時に、実際の所どういった構造になっているのかという事だ。

そういった事を追求する事が別に絶対に正しいとか、本能で生きている人が愚かだとかそういった事は全く思っていない。むしろ、本能だけで生涯を真っ当出来るのであれば、それ以上に幸せな事は無いんじゃないかと思う。

自分は不幸せでも良いから、そういった考察を本能による希望的観測とかでうやむやにしたりせず、死ぬ間際まで考察し続けていたいと思う。そこから目を背けても、自分の場合は絶対に逃れられないと思うし、苦しかろうが何だろうが無意味だろうが、考察を続ける以外に道が無いと感じている。

話を本題に戻すと、10代の頃の自分に「生きているって何だろう?」と質問されて、仮に思うまま回答をするのであれば「たったの一つも意味の無い、そこらの蝿と完全に同等の時間を過ごすだけの事で、今君が絶対的だと思っている愛情や夢や希望の類は全て幻だ」と答えるだろう。

しかし、実際にはそんな事は言わない。適当にポジティブな回答を並べてお茶を濁すだろう。

なぜなら、10代の頃の自分にはまだ、本能だけで生きて生涯を終えられる可能性が残っているから、余計な事は言わずに幸運を祈るだけしかしないと思う。前述した通り、「幸せだと感じる人生」を過ごすためだけなら、理性や思考はなるべく無い方が良い。

バカらしい事をバカらしいと思わず、間違い無く絶対的な幸せだと勘違いして生きて死んでいった方が絶対に幸せを多く感じられると思う。だからその道から外れてしまうような余計な事は言わない。

がしかし、自分は完全に逸れてしまったのだと思う。本能が求める幸せがあるにはあるが、せいぜいその割合は10~20%程度、どれだけ本能に忠実に生きようと考えても、80~90%の理性が自分の幸せを奪いに来る。

だから、残念ながら考察を続ける以外に方法が無い。

しかし、この考察も別に100%不幸せな事だとは思っていない。苦しい事が9割以上を占める事は事実だが、本能だけでは見えない無限の可能性が感じられるからだ。

意中の異性をつかまえるだとか、大きい家を建てるだとか、そんな事よりもよっぽど関心のある信じられないような奇跡が私達の暮らす地球、そして宇宙では巻き起こっているのだ。

毎日当たり前のように吸っている酸素がある事、当たり前のように飲んでいる水がある事、ネコやワニなどありとあらゆる生命体が同じ空間で生活している事、三次元という空間を認識出来て、それを目で捕える事が出来る事、足で移動出来る事、これらは本当に信じられないような奇跡的な出来事だと思う。

更に人間は、そういった感動を言葉という形にしたり、音楽や絵のような芸術作品に具現化したりといった能力も持ち合わせている。

今この世界で巻き起こっている信じられないような奇跡を体全身で感じて、その感動を様々な形で体外に放出する、これこそが深い思考能力を持つ人間に相応しい生き方なんじゃないかと思う。

9割以上本能で生活している生き物であれば、寝たり、食べたり、セックスをしたりといった事を追い求める事が適切な生き方であり幸せの形だと思うが、理性や思考力で生きる人間は、やはり芸術と共に生活をする事が適切な生き方であり、幸せの形なんじゃないかなと自分は思う。

芸術によって自分の知名度を上げたり、美形のメスを捕まえたりだとかは、自分の中にある僅かな本能を喜ばせる程度の些細な幸せ、サブイベントのようなものだ。

思考や考察を重ね具現化する、ただその行為にこそ関心がある。

一つ贅沢を言うならば、そういった思考や考察について話し合える、同じ価値観をもった人が欲しい。全部が全部分かり合えなくてもよいから、どこか1部分だけでも通じ合える人と会話がしたいなとは思う。

会話によって更に自分の中の考察が洗練され、また一人旅に出る、今思いついた事だけれど、それは自分にとって、全てではもちろんないけれど、幸せなパーツの一つなのかもしれないな。

人を見下すようなつもりは全然無いんだけど、少なくとも自分の身の回りには、本能をベースで生きているような人が大半だ。こんなブログで書いているような話は到底出来やしない。

けれど、過去を振り返ってみると、少なくとも一部分に関しては価値観を共有して話を出来る人が居た。むしろ、結構いた。

考えてみれば、自分はそういった人達を、あまり大切に、貴重には扱えてなかったのかもしれない。何となく通り過ぎていく様子を傍観して、スタスタと自分は自分で自分の道をと淡々と前進してきてしまったのかもしれない。

とは言え、今考え直してみても、そういった人達に小まめに連絡をとったりとか、自分はそんな事は出来ないな。なぜなんだろう、そういう気が起こらないというのが本音だ。つまり、そういう性分の人間なのだろう。

「どこか1部分だけでも通じ合える人と会話がしたいなとは思う」と書いたけど、これは友人や恋人とか、自分の身の回りに留まるような存在ではなく、もっと不特定多数で色々な人とそういったやりとりをしながら生きていきたいのかもしれない。

毎日自分の考察を進める中で、何らかの芸術作品を発表して、それに反応する行きずりの人達と、双方思うがままにお互いの情報を共有し、また散っていく。

そんな繰り返しが出来て、自分の考えや作品が日々少しずつブラッシュアップされていく、そんな生活が自分にとって本当の理想なのかもしれない。

生きている事は無意味で無価値である事は間違い無いが、非常に奥が深く面白い出来事である事もまた事実だと思う。

人嫌いの実情

めちゃくちゃ久々にブログを書いてみようと思う。

自分が中学生くらいの頃、いつも思っていた。

自分は将来、そこそこの大学を出て、そこそこの企業に就職して、そこそこの女性と結婚して、そこそこの一軒家を建てて、

そこそこに子育てをして、そこそこに家族の幸せを味わった後、そこそこの年齢で死んでいくんだろうなと。

そしてそんな妄想が膨らむ度、退屈な今後の自分の人生に嫌気がさしていた。

言うまでも無く、仮にそんな人生が本当にあったとしたならば、それはとても幸せな人生だと思うし、大人になった今は特にそう思う。

けれどやはり、そういった感じの生活をしている人を街で見かける度に、幸せそうで素晴らしいなと思う反面、心の底では退屈そうだなと今でも感じてしまう。

逆に、現在の自分のライフスタイルを振り返る度に、「こんなんになっちゃったなぁ~」と思いながらも、特に不満は無く概ね満足している自分がいる。

なぜ満足しているかと言うと、「いつでも何でも出来る、何でも始められる今の環境」が非常に心地良いからだ。

自分は色々とやりたがりな性格ではあるけれど、24時間何かに集中し続けたいような人間では無い。というか、そんな才能は自分には無い。

ダラダラと無駄に時間を過ごしているだけでも、「何かやろうと思えば今すぐにでも動き出せる」という環境に身を置いていられれば、それほどストレスは溜まらない。

あまりにダラダラし過ぎると段々とストレスになってくるのだが、「何かやろうと思えばすぐに動きだせる環境」に居るので、ストレスが限界に来た時は自然と何かをやりだすという仕組みになっている。

逆に、何もやる気が無い時でさえ、「何かやろうと思ってもすぐには動き出せない状況」であれば、物凄くストレスが溜まる。

なぜ自分が、一般的な家庭の枠に収まる事を変に嫌がるのか、昔はいまいち分からなかったけど、「何かやろうと思ってもすぐには動き出せない状況になってしまうから」だと思う。

逆に、世の中の多くの人は、「何かやろうと思ってもすぐには動き出せない状況」に対して、それほどストレスを感じていないから、飄々と家庭の中で何気ない日常を過ごしていけるのだと思う。

もしくは、それなりにストレスは感じていたとしても、「誰かと一緒に居られる安心感」の方が重要度が高ければ、ストレスに耐える事が出来るのだと思う。

もしくは、「家族の中で生活をしている充実感」によって、強く幸せを感じているのかもしれないなと思う。

自分は、誰かのせいで自分自身が「 何かやろうと思ってもすぐには動き出せない状況 」になってしまった場合、その誰かに対して苛立ちを感じてしまう。

それは家族として誰かと一緒に暮らすとか、そんな大きい話では無く、友人と遊ぶ約束をした時とか、そんな時ですら少なからず苛立ちが生まれる。

なぜなら、その約束をしてしまったせいで、 自分自身が「 何かやろうと思ってもすぐには動き出せない状況 」 になってしまったからだ。

また、友達との約束をドタキャンされた時に、多くの人は残念がったり、その人に対してネガティブな感情を抱いたりするのだと思うけど、自分の場合は真逆ですごく晴れ晴れとした気持ちになる。

なぜなら「何かやろうと思えば今すぐにでも動き出せる状況」になったからだ。

こんな事を言うと、誰かと時間を過ごす事に全く価値を感じていないように思われるかもしれないが、そんな事は無い。

確かに自分は「誰かと一緒に居られる安心感」や、「家族の中で生活をしている充実感」というような事に関して、あまり幸せは感じられるタイプでは無いと思う。

全く感じていないわけでは無いのだけれど、「何かやろうと思ってもすぐには動き出せない状況」になってしまう不快感の方が遥かに強いので、差し引きした結果、そこそこの友人と食事や飲み会など、そこそこの用事をこなすような場合、はっきり言って面倒臭いという感情が大きく勝る。

同時に、少なからず自分に関心を持って声を掛けてくれた人に対して、そんな人の心が無いような負の感情を抱いてしまう自分自身が申し訳なく思えてしまい、それでまたストレスを感じてしまう。

信じてもらえないかもしれないが、自分は人一倍、自分と関わる人達の事を深く考えて価値観を理解しようと努力しているつもりだし、その上で出来れば自分の手で少しでも幸せにしてあげたいなとすら思っている。もちろん見返りを求める事も無く、言ってしまえば自己満足だ。

最も自分が苦手なのは、「誰かと一緒に居られる安心感」によって強く幸せを感じられるタイプの人間だ。こういったタイプは、特別自分に愛着が無くても、しつこく自分に会う約束を取り付けてくるし、自分たちは親友だ何だと喋り始めるし、自分に執着してくるし、自分も同じ感情でいる事を強要してくるし、そのくせこっちの心情は全く理解しようとしないし、こちらの本音を漏らそうものなら自分を「人の心が無い狂人」かのような言い方で熱烈に批判してくるし、、、事例は挙げだしたらキリが無い。

だからこそ同じように、「家族の中で生活をしている充実感」によって強く幸せを感じられるタイプも苦手なのだと思う。特別自分に愛着が無くても、いつも家族で過ごす予定を自分のスケジュールに組み込んでくるだろうし、「私達は家族なのだから」という理由で絆を求めてくるだろうし、自分も同じ感情でいる事を強要してくるだろうし、そのくせこっちの心情は全く理解しようとしないだろうし、こちらの本音を漏らそうものなら自分を「人の心が無い狂人」かのような言い方で熱烈に批判してくるだろうし、、、全ては妄想なのかもしれないが、やはり高確率でこのような展開になってしまうと思う。

自分が誰かと一緒に居て幸せを感じられるのは、相手が自分自身の事を良く理解してくれていて、その上で自分に愛着を持ってくれていて、相手が自分といて楽しいと思ってくれているのを感じられた時だ。

「誰かと一緒に居られる安心感」や、「家族の中で生活をしている充実感」を何より重視するような人からすれば、自分が善人ぶっているだけの勘違い野郎だと思ってしまうかもしれないが、自分は自分自身が幸せになる事よりも、自分が誰かを幸せに出来た時の方が満足感を得られるのだと思う。

というか、それしか他人との時間を楽しく過ごす方法は無いと思う。

自分はそんなに情に厚い人間では無い。誰かが悲しんだりしている時、まるで自分の事のように悲しんだり出来るような優しさも持ち合わせていない。だから、多くの人に愛されるような人間では無い。

だからこそ、こんな自分に愛着をもってくれる人が現れた時、多分人一倍嬉しい気持ちになるのだと思う。だからこそ、そんな人を自分が幸せにする事が出来た時に、大きな満足感を得られるのだと思う。

だからこそ、こんな自分でも人に愛着をもってもらえるように、皆を幸せに出来るような、皆を感動させるような、何か作品のようなものを作りたいと思うのかもしれない。

だからこそ、「何かやろうと思えば今すぐにでも動き出せる状況」は、そんな作品を作るための一歩目をいつでも踏み出す事が出来るので、すごく気分が良いし安心する。

逆に、「 何かやろうと思ってもすぐには動き出せない状況 」 は、すごくストレスが溜まる。

多分、自分と同じような価値観を持っている人は、意外と少なくないんじゃないかなと思う。もし身の回りでそんな人が思い当たった場合は、今回のブログが少しでも参考になれば幸いです。

間違っていて良い

世の中は「絶対に正解」と言える事は一つもないと言っても過言では無い。

それでも、世の中には「正論」とされる考え方がある。

正論とは、ある一つを様々な角度から観察した場合、妥当だと思われる考え方だ。

では、世の中の全ての人が、全員この正論を語る世界こそが理想なのかと言うと、むしろそれは破滅的な状況だと思う。

確かに、ある程度年齢を重ねた人達の多くが、この正論と異なる考えを持っているのは問題ではあるけれど、10代のような若い世代が正論とは異なる考えを持っているというのは、社会にとって非常に健康的だと思う。

絶対的な正解が無く、これから世の中がどういう風に動いていくのか誰も分からない状況では、ある程度正論に票が集まりながらも、基本的に内容の良し悪しに関わらず、様々な意見や考え方が溢れている事がとても重要だ。

逆に、それが限りなく正論であっても、一点に意見が集中してしまうのは非常に危ない傾向だ。

とにかく、多種多様な考え方があり、それらがバランス良く世の中に分布していることが最も大切な事だと思う。

この街で皆、暮らしている

今の家には、気がつけばもう8年近く住んでいる。こんなに長居するつもりは無かった街だし、今だって大して愛着が無いというのが本音だけれど、多分居心地が悪くないという事なんだろう。

もし自分がこの街に住んでおらず、その状態でこの街を訪れたとしたら、「こんな街にも暮らしている人がたくさん居るんだろうな」と思うだろう。

そして、現実の自分はこんな街で8年も暮らしているわけで、

つまり、他の街でも、こんな感じでたくさんの人達がそれとなく何となく暮らしているんだと思う。

自分の暮らすマンションの隣は、小ぶりな一軒家が所狭しと立ち並んでいる。

この家で生まれた子供達は、当然この場所が生まれ故郷として記憶に深く刻み込まれるのだろう。

何の意味もないただの偶然なのか、それともこの出来事を運命と捕らえるのか、同じ街に住む身として、とても気になる所だ。

生きる

人が生きるという事、つまり人生というのは、大した意味も価値も無いと思う。

先に言っておくと、別に鬱になってるわけではなく、ひねくれてネガティブになっているわけでもない。

ただフラットな気持ちで公平な位置からの視点で言えば、やはり限りなく無意味で無価値だと思う。

こないだYouTubeで、車にひかれた野ウサギを捌いて食べる動画を見た。

腹部を切り裂くと、そこには様々な臓器が整理整頓されて並んでいた。

頭部は車にひかれた際に損傷していて、脳がはみ出していた。

多分、人間の腹を切り裂き、頭を割ったら、野ウサギよりは複雑かもしれないが、ざっくり似たような内容になっているに違いない。

そう考えると、野ウサギの生涯も人間の生涯も、大して違いが無いと思える。

人間の方が寿命が長いとか、頭が良いとかの違いはあるけれど、広い視野で両者を見れば、決定的な違いは無いと思う。

では、野ウサギの生涯とは何だろう。食って寝て、性行為をして、死なないように毎日を生きているが、全ての個体は最終的に「死」に行き着く生涯だ。

そんな生涯の中に、人間が言う意味だとか価値だとかはあるのだろうか。

人間が言う意味だとか価値だとかは、例えば何か、この世に存在すらしない概念を指しているように思う。

すごく分かりやすく言えば、この世で善行を積めば天国にいけるだとかも、ストレートに言えば幻でしかないと思う。

そうだったらいいなという圧倒的な希望的観測、そこにむかって盲目に突き進み、死の間際になって「これで天国に行けるんだ」と満足して死んでいく。

少なくとも言えるのは、こういった考え方が世の中に普及することは、人間社会の秩序を保つためには非常に都合の良い概念だと思う。

しかし、少なくとも私の場合は、そんな生き方はとてもじゃないが出来ない。そんな希望的観測に身を委ねるなんて、はっきり言ってバカらしく思う。

もっとフラットな視点で、今の自分の状態を観察し、その状況を見極めた上で満足のいく行動を選びたいと思う。

そうやって考えた時に、人生というのは、あまりに無意味で無価値だと思う。

では、無意味で無価値だから、今すぐ死んでしまった方が良いのかと言うと、それは非常にもったいない事だと思う。

なぜなら、人が生きる姿というのは、とても美しいからだ。

野ウサギの生涯だって、非常に美しい。

意味だとか価値だとかではなく、ただ懸命に生きようとするその姿は、言葉では表現しきれないほど、美しいものだと思う。

人間の生涯だってそうだ。愛する人を守ろうとして、生き延びようとするその姿は、何にも代え難い程に美しい。

私達は誰しもが、そんな美しい生命のひとつであり、誰しもが美しく気高い存在だと思う。

だから、毎日ただ懸命に生きること、ただそれだけで、人生というのは非常に充実した時間が過ごせると思う。

自然の神秘の塊であるこの地球で、のびのびと人間らしい一生を全うする事、その姿は大変に美しく、自分もそんな美しい生命の一つであることを自覚すれば、意味だとか価値なんか、どうでも良くなると思う。

とにかく私が思う事は、意味だとか価値だとかいう幻を追いかけようとするから、人間は自分の生き方を見失うのだと思う。

そんなつまらない幻想を追い求めるのではなく、家族を想うと温かくなるこの感情や、優れたアート作品を生み出した時の興奮だとか、この世に人間として生まれたからこそ体感できるこの感覚を、存分に楽しむ事の方がよっぽど有意義だと思う。

人生なんて意味も価値も無い。けれど、生きているだけで何だかよく分からないけどワクワクするし、面白い。ただそれだけで良い。

与えられたこの生命力や好奇心のまま命を燃やす、ただそれだけで良い。

小説

昨日は何の前触れも無く、小説のようなものを投稿してみた。

自分は、作詞に煮詰まると小説のようなものを書いてイメージを膨らませる場合がある。

昨日はそのペンの進みが良かったので、思い切って作品と呼べるくらいの文章量になるまで仕上げてみた。

作詞は言葉のリズムや響きを意識しないといけない分、色々と制約があって中々仕事が進まないが、小説はそれらを気にしなくて良い分、ズラズラと文字を起こせるから楽しい作業だ。

今後は読み手やBGMなんかもつけて、紙芝居的な動画コンテンツを作りたいなとボンヤリ考えている。

古い汽車のおもちゃ

彼女は小さな頃から内気だった

僕が小学校の中学年の頃、土曜日に友達と公園で遊んで家に帰ると、小学校の低学年だった彼女が家の前で座り込んで、植木の草を眺めていた。

「どうしたの?」と聞くと、「遊びに来たけど、居なかったから、待っていたの」と彼女は言った。

「僕の家はこれから夕ご飯なんだ」と言うと、彼女は寂しそうな顔をした。

このまま家に帰してしまうのも可哀そうだと思った僕は、母親に頼んで一緒に夕飯を食べようと提案した。

彼女は「少し一緒に遊んでくれたら帰るよ」と言ったけれど、こんな時間に誰かと一緒に遊んだ事が無かった僕は、すっかり気持ちが盛り上がっていて、彼女の手を引いて半ば強引に家の中へと連れて入った。

僕の母と彼女の母は仲が良かったし、彼女の家もたった2軒隣だったので、結局、彼女は今夜、僕の家に泊まる事になった。

すぐに彼女の母親が家に来て、「ちゃんと言う事を聞くのよ」と彼女に念をおした。

その後で僕にニコッと微笑んで、「うちの子を宜しくね」と言った

既に夕飯の準備が整っていたので、僕らは一緒に食事をした。

自分の家の食卓に、家族以外の誰かが座る事自体が初めての経験だったので、僕はとても楽しかった。

彼女は、家の食卓に必ず並ぶ、きゅうりの漬物が大変気に入ったようで、容器の半分をも食べきってしまった。

その後で僕らはお風呂に入った。

家のお風呂の使い方を教えたけど、いまいち理解出来ていないようだったので、僕は一緒にお風呂に入ろうと提案した。

彼女は「えっ、!」と驚いた後で、僕が嫌じゃなければいいよと言った。

僕は、いつもお父さんと遊んでいる水鉄砲で彼女と遊んだ。

彼女の家のお風呂にはおもちゃが無いらしく、お風呂での水遊びは大変盛り上がった。

あまりに盛り上がって1時間近くもお風呂に入っていたので、母親から声がかかり、僕らは風呂を出た。

彼女は、彼女の母親が持ってきた、猫の柄のパジャマに着替えた。

パジャマを着ている彼女を見るのも初めてだったし、こんな時間に家族以外の誰かが家に居る事も初めてだったので、僕はとても気持ちが盛り上がっていた。

僕もパジャマに着替えると、母が「いちごがあるから一緒に食べよう」と言った。

彼女はいちごが大好物だったし、母もそれを知っていた。

彼女はとても嬉しそうな顔で、いちごをパクパクと何個も食べた。

その後、母さんと父さんはリビングでテレビを見ていたので、僕たちは布団を敷く部屋で二人で遊んだ。

僕は、父さんのおじいちゃんの家からもらってきた、古い汽車のおもちゃを地面に広げた。

プラスチック製のレールを敷いて、電池駆動の汽車のスイッチを入れる。

汽車の車輪がモーター音を響かせて回った。

汽車をレールの上に乗せると、ガチャガチャとぎこちなく進んでいく。

そしてレールが途切れると、汽車は壁に向かって一直線に進み、壁にぶつかると地面に転がってモーター音を響かせた。

彼女は、その様子を、ただ傍観していた。

汽車のスイッチを入れてごらんと促しても、彼女は「私は大丈夫」と言って、汽車を地面に置き、手で車輪を転がして遊んでいた。

時計を見ると、もうすぐ11時だった。

僕たちは二人で歯を磨いて、寝る事にした。

いつもは布団を三枚敷いて寝ている部屋に、今日は四枚敷いて、僕と彼女は並んで寝る事になった。

僕は一日中遊んで疲れていたので、布団に入るなり、ウトウトとしていた。

ふっと彼女の方を見ると、布団の隙間から僕の事をジッと眺めていた。

「眠れないの?」と小声で聞くと、彼女は無言でコクリと頷いた。

僕は彼女の手を握って「一緒に寝よう」と言った。

彼女はまた、無言でコクリと頷いた。

朝になって目が覚めると、母さんと父さんは既に布団に居なかった。

彼女の布団の方を見ると、寝る前と同じように、また僕の方をジッと眺めていた。

僕が「眠れた?」と聞くと、小声で「うん」と言った。

リビングに行くと、朝食の準備が整っていた。

今朝の朝食は、いつもの納豆ご飯では無く、トーストや目玉焼きが色どり賑やかに並べられていた。

彼女はウトウトと眠たそうにしながら、トーストをかじっていた。

すると間もなくして、彼女の母親が家に来て同じ食卓に座った。

今まで僕も見たことが無いカップにホットコーヒーが注がれ、それを彼女の母親が上品に啜り始めた。

僕は彼女の母親に、昨晩の出来事を色々と話をした。

彼女の母親はニコニコとしながら、「遊んでもらって良かったね」と彼女に言った。

彼女は、無言でコクリと頷いた。

皿洗いを終えた僕の母親が、いつものカップを手に、食卓へ座った。

僕の母は、彼女の母親と暫く談笑した後で、わざとらしい笑顔を浮かべながら「大きくなったら家にお嫁さんに来て頂戴ね」と、彼女に向って言った。

彼女は、無言でコクリと頷いた後で、僕が嫌じゃなければいいよと言った。

僕は、僕もお嫁さんに来てほしいと言うと、彼女はとてもニコニコとしながら、2回、ウン、ウンと頷いた。

彼女が自宅へ帰って行った。

一人になった僕は、また汽車のおもちゃを地面に広げていた。

スイッチを入れると車輪が回りだし、それをレールの上へ置くと、昨日と同じようにガタガタと不安定に進んだ。

壁に当たって倒れこんだ汽車を、僕は眺めていた。

あれから数年の時間が流れた。

僕は中学生になって、野球部の練習で毎日忙しかった。

彼女とは、時々家の前で偶然顔を合わせる事があっても、昔みたいに一緒に遊ぶ事は自然と無くなっていった。

彼女は小学生の高学年だったので、何となくランドセルを背負った彼女と遊ぶことに、中学生の僕は抵抗があったし、何より幼馴染とは言え、異性と一緒に遊ぶことは何となく照れ臭かった。

たまに顔を合わせると、彼女は家の植木をぼんやりと眺めていた。

その視線の先には、小さな白い花が点々と咲いていた。

その花が好きなのかと僕が尋ねると、彼女は小声で「うん」と言った。

それから更に時間が流れ、僕は大学生になっていた。

ある日、バイトから帰ると母親が深刻な顔をして僕に話しかけてきた。

彼女の父親が亡くなったらしい。

2ヵ月くらい前から体調が悪く入院していたと聞いていたが、まさか亡くなるとは思わなかった。

翌日の夕方、僕は両親と一緒に彼女の家へ行き、お通夜に出席した。

幼い頃に彼女と遊んだ、彼女の家のリビングに懐かしさを感じたが、そのリビングの端に置かれた大きな棺桶と遺影は、その見慣れない違和感も相まって、とても不気味な光景のように思えた。

彼女は高校の制服を着て、リビングの片隅に立っていた。

お父さんは残念だったねと声をかけると、彼女は黙って頷いた。

それから通夜が終わるまで、僕たちは無言で肩を並べていた。

出来れば彼女を慰める言葉をかけたかったのだけれど、あれこれ悩んでみても一向に言葉が浮かばず、ただ僕は隣で黙っているだけだった。

お経を唱え終えたお坊さんが帰り、大人たちが片付けをして、今日のお通夜が終わった。

親戚の人達がゾロゾロと帰っていくのを、僕と彼女は相変わらず肩を並べて眺めていた。

彼女の母親が、親戚達を駅まで送ると言って、玄関で靴を履いていた。

彼女の母親は、僕の顔を見るなり「うちの子を少しの間見ていて欲しいんだけど、お願い出来るかな?」と言った。

僕は少し微笑んで、「分かりました」と返事をした。

すっかり寂しくなったリビングで、僕と彼女は二人きりでソファーに座っていた。

相変わらずかける言葉も見当たらず、ただ地面を眺めてうなだれていた。

僕は、自分の両親がもしも死んでしまったらと、想像していた。

両親と過ごした懐かしい記憶が次々に脳裏を過る。

そして、それらは両親の死をもって、新しい記憶が更新されなくなるのかと思うと、何だかとても不安な気持ちになり、泣きそうになった。

そして、今まさに彼女がその心境の中に居るのかと思うと、余計にかける言葉が見当たらなくなり、そんな自分の不甲斐なさも情けなく思えてきて、涙が出てきた。

僕は彼女にばれないように、スーツの袖で涙を拭った。

彼女の方を見ると、彼女の目にも涙が浮かんでいるのが分かった。

僕は、震える声で、彼女に話しかけた。

「お父さん、まさか亡くなるとは思わなかったよ。」

それから、まだ後に続いて何か言葉をかけたかったのだけれど、涙で声が震えて、それ以上話をする事が出来なかった。

すると、彼女が小さく嗚咽しながら、泣き始めてしまった。

それを見た僕も、涙が止まらなかった。

今まで生きてきて、こんなに涙が出たことも、こんなに言葉が出なくなった事も初めての経験だった。

僕らはそれから何の会話もなく、二人で涙を流していた。

少しずつ気持ちが落ち着いてきた頃に、彼女の母親が帰ってきた。

僕の母親も一緒だった。

今夜は皆で夕食を食べようという事になり、僕の家の食卓で食事をとった。

彼女とは正反対に、彼女の母親は飄々としていた。

さっきまでの僕と彼女の空気とは全く異なり、食卓はそれなりに賑やかだった。

会話が途切れ、少しの沈黙の後で、彼女の母が話しをし始めた。

「まさか旦那もねー、こんな年で死んじゃうなんて、さすがに想像出来なかったよねー。この子もまだ高校生だっていうのにさー、せめて20歳になるぐらいまでは頑張って欲しかったけどねー、まあ、仕方ないけどね」

「幸い、人一倍保険は加入してたから、あの家のローンも多分もうほとんど支払う必要は無いし、貯金もそれなりにあるし、保険でそこそこお金も入ってくると思うから、まあ生活の方は何とかなるかなー、多分ね」

「私も仕事は楽しくやれてるし、まあ第二の人生だと思ってやっていくしかないよねぇ、ほんと、人生何が起こるかわかんないって本当だね」

「(彼女の方を見ながら)まあ、生活の事とか将来の事とかは、そんな感じでお父さんがしっかり準備していてくれていたから、何も心配ないから安心して。お母さんも寂しくないわけじゃないけどさ、正直、1ヵ月前くらいからこうなる事は想像していたし、最後にお父さんとも話を出来て覚悟は出来てるから、大丈夫だから」

「寂しい思いをさせちゃって本当申し訳ないけど、クヨクヨしていても仕方がないから、これからはお母さんと一緒に頑張ろうね」

彼女の母親の言葉は、最後の方は少し声が震えていた。

彼女はまた泣きそうになりながら、地面を見つめて頷いていた。

僕は夕食をつまみながら、相変わらず思い浮かばない、かけるべき言葉を探していた。

それからと言うもの、彼女と彼女の母親と一緒に過ごす時間が増えた。

少なくとも週に1回はどちらかの家で夕食を食べる日があり、すっかり彼女の父親が亡くなった悲しさも、知らぬ間に誰もが感じなくなっていた。

僕と彼女もまた一緒に話をしたり遊んだりする事が多くなり、両親達がお酒を飲みだすと、僕らは決まって僕の部屋でゲームをする事が定番の流れとなっていた。

また、彼女が僕と同じ大学へ進学した事もあり、ますます僕らは二人で過ごす時間が増えていた。

彼女とは小学校や中学校も一緒の学校だったけれど、学年が違うと中々一緒に行動をする時間も無く、たまにすれ違う時に少し言葉を交わす程度だった。

しかし大学となると学年の違いはさほど問題にならず、気が付けば昼食はいつも二人で食べる事が日課となっていた。

大学ではお互いに友人はいたのだけれど、どちらの友人も、彼女の事情や、僕たちの幼馴染という関係を知っている事もあり、特に昼食の時間に二人の時間を邪魔する人間はいなかった。

大学四年生の夏、僕は早々に就職先が内定した。

実家からもそう遠くない、それなりに有名な企業だ。

恒例となった夕食会では、僕の内定を祝って彼女の母親がケーキを作ってくれた。

食べきれない程に巨大なケーキだった。

その日もまた両親達はお酒を飲みだしたので、いつも通り僕らは、僕の部屋でゲームをして遊ぶ事にした。

僕の部屋に入ると、彼女は本棚に置かれた古い汽車のおもちゃに手をかけた。

「これ、懐かしいよね」と、彼女が言った。

「ああ、それね、僕のじいちゃんが昔くれた汽車のおもちゃ、まだ動くのかな?」

僕は汽車のスイッチを入れてみたけれど、汽車は動かなかった。

しかし、電池を入れ替えると、汽車の車輪は「ジーーー」っと音を立てて回り始めた。

僕が汽車を地面に置くと、汽車は真っすぐに壁を目指して走り出して、壁にぶつかると、コテンと倒れ車輪の音だけが部屋に響いた。

「すごい、これって結構丈夫なんだね」と、彼女が言った。

彼女は続けて話始めた。

「昔、すごく小さい時に初めてこの汽車で遊んだ時、私こういうおもちゃで遊んだ事が無かったから、壊してはいけないと思ってスイッチを入れられなかったんだ」

彼女は汽車を拾い上げて、スイッチを切った。

そして、もう一度スイッチを入れると、車輪がジーっと音を立てて回り始めた。

「あの日の事って覚えてる?私はね、実はすごくはっきりと覚えているんだよね」

「初めて人のお家にお泊りに行って、すごく不安だったんだけど、すごく楽しかったんだよね」

「お風呂も、家族以外の人と入る事が初めてだったから、すごく緊張した」

「お風呂の後で食べたいちごも、すっごく美味しくてね、突然思いがけず嬉しい事ばかりの一日になっちゃったから、何だか私は申し訳ないような気持になっちゃってさ」

「それで、この汽車のスイッチを入れるのも申し訳なくて、遠慮してたんだよね」

「でもね、本当は遊んでみたかったんだ」

彼女はそう言うと、車輪が回る汽車を地面に置いた。

汽車は真っすぐに壁を目指して走り、壁にぶつかるとコテンと倒れて、また車輪の音が部屋に響き渡った。

僕は汽車を拾い上げ、スイッチを切った後で、彼女に結婚して欲しいと伝えた。

彼女は、すごく驚いた顔をして、涙目になりながら、コク、コクと何度も頷いた。

その姿を見て、僕も涙が止まらなくなって、彼女を抱きしめた。

僕は彼女の事が好きだった。

幼い頃は、仲の良い友達だと思っていたけれど、中学生くらいになると、なんだか心がモヤモヤとするのを感じていた。

好きなのかもしれないと思うと、何だかとても恥ずかしい気持ちになって、だからあまり考えないようにしていた。

彼女のお父さんが亡くなってから数日の間、僕はずっと彼女の事を考えていた。

それから彼女と過ごす時間が多くなって、自分が彼女の事を好きだと言う事を、はっきりと認識した。

僕がプロポーズをした、その一ヵ月後、恒例の夕食会の最中に、僕は彼女のお母さんに、自分の想いを伝えた。

すると、彼女のお母さんはすぐに涙を流して、震える声で「うちの子を宜しくね」と言った。

僕の両親も、うっすらと涙を浮かべながら、ニコニコと僕らを眺めていた。

それから何年も何年も月日が経った。

僕と彼女はすっかりおじさんとおばさんになっていて、3人の子供も生まれた。

僕の実家と彼女の実家は、どっちがどっちの家なのかという認識も曖昧になる程に両家を行き来しており、子供の成長などに合わせて臨機応変に住む人達の配置変えが行われた。

僕は相変わらず、新卒で勤め始めた会社に通っていて、日々少しづつ変化はあるものの、毎日大して変わり映えの無い生活をしていた。

そんな生活を、正直、特別有難いとまで感じた事もないが、疑問や不満も無かった。

この街に生まれて、この家で育ち、奥さんとも幼い頃から一緒に時間を過ごしてきたから、それ以外の生活や人生なんて想像もつかない。

こんな人生を、他人がどう思うのかは知らないけれど、はっきり言ってそんな事、全く関心が無かったし、僕は今の生活に十分満足していた。

もしかしたら、今の生活以上に幸福感を感じられる人生というものがあるのかもしれないが、正直、全く興味が無かった。

毎日、両親や、奥さんの母親が楽しそうにしていて、子供たちも楽しそうに遊んでいて、何よりも奥さんが毎日ニコニコと楽しそうにしているから、それ以外の事柄に関心が向かなかった。

もちろん、今の生活はずっとは続かないだろう。

きっとお互いの両親が亡くなって、次は僕か奥さんが死ぬ番だ。

けれど、何も不安を感じる事は無かった。

僕は昨日も一昨日も、十分に満足できる一日を過ごした手ごたえがあるし、今この瞬間も、これ以上にベストだと感じる選択肢が浮かぶ気がせず、だから不満も無かった。

仮に彼女の父親のように、ある日突然、選ばれるべきでない家族の命が消えてしまったしても、自分は最善の選択をし続けられたという自信があるから、後悔なんてする余地が無い。

今日も、明日からも、その日一日を精いっぱい過ごす事だけが僕の目標だ。

自分に与えられた道を、ただ精いっぱい真っすぐ進む事だけが、僕の全てだ。

アートとは?

最近は全く作品を発表していないけれど、人知れず考案だけはしている。

けれど、考えても考えても、発信したいと思えるほどの作品を生み出す事が出来ないで今日に至る。

音楽などをやっている30~40代くらいの人と話をしていると「最近はどんな作品を見たり聞いたりしても、これはこれで良いと思えるようになった」という言葉を良く聞く。

それはとても理解出来るし、自分自身同感な部分は非常に多いのだけれど、アーティストの思考としては非常に良くないものでは無いかと感じている

とは言え、その言葉を言っている人に「何でもいいんですね?では、この楽曲(適当にセレクトしたもの)をあなたのデビュー曲として発表しようという企画が立ち上がったとしたら、それもいいんじゃないかなと心から言えますか?」と聞けば、恐らくちょっと待てという反応になるに違いない。

つまり、何でも良いと言いつつも、本当は何でも良くはなくて、自分には自分の確固たるこだわりのようなものが本当はあるのだと思う。

それは自分も同じで、若者から年寄りまで、色々な人の色々な作品や主張を一理あるなと感じていながらも、しっかりと自分自身の考えも持っているというのが本音だ。

その本音を探り当てる事こそが作品作りのスタートなのではないかと感じている。

では、自分の本音というか、作品作りにおける確固たる部分は何なのだろう。

色々な角度がありすぎて全てを言葉にする事は難しいのだけれど、端的に言えば、時代に左右されない程にポピュラーな人間の感情をアート作品として具現化したいというのが自分の中に大前提として存在している。

「 時代に左右されない程にポピュラーな人間の感情 」というのは、例えば愛する人と離れ離れになってしまって悲しいだとか、たった一人生きていく孤独が辛いだとか、漠然とした人生に対する不安であったり、他人と心を通じ合いたいという想いであったりとか、

多分、原始時代の人類と会話をしたとしても、そこまで大きくは相違いはしないであろう、人間の人間らしい純粋な感情を、アート作品として何らかの形で具現化をして、それを見たり聞いたりした時に、視聴者が自分の心の純粋な部分と共鳴して、悲しいんだか安心するんだか特定が難しいような複雑な涙が自然と出るような、そういった作品を作りたいという想いだ。

先日、ゴッホのヒマワリを美術館で見てきた。

結論から言うと、想像していたよりもずっと良い絵だと思った。

そもそもヒマワリという花は、明るく元気な印象とは裏腹に、寂しくて苦しいような表情も持ち合わせていると思う。

ただ文字で「 愛する人と離れ離れになってしまって悲しい 」とか「 たった一人生きていく孤独が辛い 」などと記載されるだけでは伝わらない、微妙な匙加減の複雑な人間の感情が、見事に絵画として具現化されているなと感じた。

人間の感覚というのは不思議なもので、「 愛する人と離れ離れになってしまって悲しい 」と言葉で説明されるよりも、絵画など抽象的な形で表現をされたほうが、より具体的というか、リアリティーをもって相手のイメージを受け取る事が出来ると思う。

また、同じ「 愛する人と離れ離れになってしまって悲しい 」という言葉だけをフォーカスしてみても、難民船から降り立ってボロボロになった人の口から、涙ながらに「 愛する人と離れ離れになってしまって悲しい 」と言葉で聞く場合や、古い喫茶店の片隅に置いてあったノートの隅に「 愛する人と離れ離れになってしまって悲しい 」と書かれていた場合など、そういったシュチエーションや環境なんかによっても、大きく言葉の印象は変わってくる。

だからアートは面白いし、奥が深いのだと思う。

音楽にしても、スッとドラムやベースの音が抜けて、寂しげなストリングスの響きの中で「 愛する人と離れ離れになってしまって悲しい 」という歌詞を歌うのか、それとも壮絶なクレッシェンドの果てで「 愛する人と離れ離れになってしまって悲しい 」と歌うのか、

また、それらの楽器の音色の僅かなニュアンスの違いや、ほんの少しのハーモニーの違いによっても、鮮明に作品の印象は変わってくる。

そんな繊細な感覚を扱う事がアーティストの仕事であり、絶妙にその感覚のバランスがとれた作品が名作と呼ばれるのだと思う。

今自分が生み出しているボツ作の多くに言える事は、どこかで他人や世間の評価を気にして、そんな幻の批評家達のご機嫌を伺うように、それとなく体裁を整えたような形になってしまっているせいで、それとなく格好がついているようで、全く心に響かない駄作となってしまっているように思う。

だからこそ、もっと自分の心に素直な作品を生み出したいと思うのだけれど、じゃあ自分の素直な心とは一体何?と自問自答してみても、いまいち明確な答えが見つからず、駄作が量産されている状態なのだと思う。

とにかくもっと素直になる事、幻の批評家達の言葉を恐れない事、加えて、あまり論理的説明的になりすぎず、直感的な作品作りも大事だと思う。

以上のように、しばらく日記を書く際は、あまり読者の気持ちを考えず、文章を整える事も無く、後で自分が見直したときに自分の軌跡を追える事を最大の目標くらいに、リアルな日記を更新していってみようと思う。

なので、つまらなかったら是非見ない方が良いと思うし、少しでも何か為になると感じた人は、どうぞ好きなように受信をして、好きなように何かに生かしてもらえれば、それは素直に嬉しい事だなと思う。

変化

最近、生活にまるで変化が無い。率直に言って非常に退屈を感じている。

しかし、一つ言えることは、自分が何も動き出さないから日常に変化が無いし、逆に動き出せばいつでも変化は起こせるのだと思う。

小さな一歩だけれど、明日もまた日記を更新してみようと思う。何か変化があるかもしれない。