何となく思い立って更新しようと思ったら、前回から1年ぶりの投稿か。
特に書きたいことがあるわけでもないけど、何か話題を探してみる。
中学・高校の頃に毎日のように考えていた事だけど「生きているって何だろう」という事について改めて良く考えてみる事にするか。
10代の頃の自分は、漠然と将来に不安を感じていて、「生きている」という事にどんな意味があるのか、日々考えていた。
物語の主人公であれば、平和な世界を取り戻すために悪に立ち向かったりだとか明確な目的があって、それが果たされた時には町中から賞賛の嵐を浴びる事になるわけだが、
あの頃の自分は、漠然とそういった「明確な目的」を探していて、それが見つからないからこそ「生きているって何だろう」と悩んでいたんだと思う。
あの頃の自分は、家族とか、恋人とか、あとは何と言っても「音楽で大成する」という夢が絶対的に信じられる事柄であると思っていた反面、果たしてそれが本当に真実なのか疑問にも感じていた。
あれから20年以上の時間が過ぎて今思う事は、「絶対的に信じられる事柄」なんて、この世に一つとして無いという事だ。
「家族を大切にする事」や、「夢を追いかけて叶える事」というのは、人間にとって絶対的に幸せな事だと言われているけど、実際にはそれらは全て幻で、人間が人間を救うために勝手に編み出した都合の良い解釈、生命の知恵でしかないと思う。
そんな事を人に話をすると、病んでいるとか、ネガティブだとか、暇だからそんな事を考えるだとか、大体そんな感じの返答が返ってくる事が大半だと思うけれど、そうじゃなくて、もっと客観的に真実だけを追い求めていくと、何も意味は無いという結論に達すると思う。
物語の主人公と言うのは、当然ながら架空の人物で、それらは全て人間の空想や理想から生み出されたものだ。
「絶対的に信じられる事柄が一つもない」という現実は、人類にとって余りにも重く、正面から対峙するにはあまりにも強敵で、だからこそ人間は有り余る思考を駆使して、ありもしない神様を生み出したり、空想を練ったりして、そういった負の感情から逃れようとこれまで工夫してきたんだと思う。
こういう事を考える時は、人間じゃなくて他の動物で現状を当てはめて考察すると分かりやすい。
人間は、人間という生き物がある種「神の子」のような特別な存在であるという大前提から色々な考察を開始するが、当然だけどそんなのは全て嘘、ネガティブな行き詰まりから逃れる為の苦肉の策でしか無い。
海外のサイトで、少年が生きたままギャング達に腹を切り裂かれる動画を見た。
そこには理科の教科書で見たような内臓の類が綺麗に並んでいて、少年が呼吸をする度に、何か良く分からない肉の皮の風船のようなものがプクプクと膨らんだりしぼんだりしていた。
そしてその様子は、ユーチューブにアップされていたサメやワニの解体動画と同じような光景だった。
人間は自分達を「特別な神の子」だと考えているが、実際には他の動物たちとほとんど同じような構造で体が作られており、唯一「思考力」が長けているといった違いがあるだけの生き物だ。
この思考力に関しても、人間が優れている事は事実だが、他の動物も少なからず同じように思考している。
ずっと室内で生活していたチンパンジーが初めて屋外に出た瞬間の動画では、まるで人間の子供のような眼差しで太陽を見上げていて、その様子からは明らかに感動している事が見て取れた。
ネズミやセミのような生き物は分からないが、イヌやイルカとかの動物は、人間ほどではないにせよ何かしら思考して、喜びや安心、不安や恐怖を感じたりしているのだと思う。
現実を見極めるのであれば、まず自分達は神の子のような特別な存在ではなく、他の動物達と全く同じ価値で、今この地球で生活をしている、という所から考察を始めるべきだと思う。
そこで、自分が仮に「オスの蝿」にでもなった事を想像してみる。
毎日空中を飛び回りゴミを啜る生活を、メスの蝿と築いた家族を守る事を、仮に人間の思考力で体感した時、本当にそれらを心の底から尊く思い、「絶対的に信じられる事柄」だと感じられるだろうか。
他の蝿から羨まれるようなメスの蝿をGETする事や、たくさんの蝿の子供を育てる事、大きな住処で生活する事に価値を感じられるだろうか。
少なくとも自分は思えない。何て意味の無い日々だと、それ以外の感想は無いだろう。
あるとすれば、ある種の諦めのような感情で、「まあこんな生活も悪くないのかもしれないな」と無理くりポジティブな考え方にもっていくだとか、あとはもう何も考えずに時間が過ぎるのをボーっと過ごすとか、それくらいなものだろう。
その上で、改めて人間の生活を考えてみる。
毎日街を行き来する生活を、女の人間と築いた家族を守る事というのは、本当に「絶対的に信じられる事柄」なのだろうか。
他の男から羨まれるような女をGETする事や、たくさんの子供を育てる事、大きな家を建てる事に、本当に価値はあるのだろうか。
少なくとも自分はそうは思えない。結局は蝿の生活と何ら変わりない、無意味な日々の繰り返しだと思う。
とは言え、これらに対して価値を感じたり出来る心が全く無い訳ではない。むしろ結構ある。心の中の10~20%くらいは、そういった生活に憧れている感情があると思う。
ただその感情というのは、自分の中にある「本能」に起因する感情だと思う。
本能では10~20%くらい憧れを抱いている反面、理性では80~90%くらい無意味だと感じているのだ。
人間は本能だけでは生きていけない。むしろ、本能を理性でコントロールする事が出来るようになったからこそ、人間はここまで進化出来たのだと思う。
もし全ての人類が本能だけで生活をしていたら、あらゆる科学は一切発展せず、ただただ無意味な暴力と感情の嵐の中、簡単に絶滅していたと思う。
理性があったから戦争を途中で一時中断する事が出来たし、来年の分の種もみを食べずに保管する事が出来た、だから今があるのだと思う。
人によっては、本能によって感じられる幸せを絶対的な幸せだと思い、信じて疑わない場合もあると思うが、人間は進化が進めば進む程に理性が発達し、本能で感じていた幸せを失っていくものだと思う。
ちょっと悪い言い方をしてしまうが、人生の大半を本能でコントロールして生活しているような人にとっては、 今回の話を仮にした場合、病んでいるとか、ネガティブだとか、暇だからそんな事を考えるだとか、大体そんな感じの返答が返ってくるのだろう。
本能で生活している人たちにとって、目や鼻のついている位置が綺麗な異性と結婚という契約をする事は絶対に幸せな事で、たくさんのお金を手に入れる事も絶対に幸せな事で、大きな家に住む事は間違い無く誇らしい事だと思うのだろう。
本能で生きている人程、絶対とか、間違い無くとか、そういった白黒はっきりとした単純な思考で物事を考えると思う。はっきり言って思考が浅いのだ。思考が浅い人間は、絶対とか間違い無くとかそういった言葉が好きだと思う。
本能で感じられる事というのは真実ではなく、ただ自分だけが体感できる主観の感想でしかない。
今この地球で起こっている様々な現象、その真実を突き詰めようと考えた場合、理性や思考でしか解き明かす事は出来ない。
自分が追求したいのは、そういった動物の本能による体感や主観ではなくて、もっと俯瞰で世の中を考察した時に、実際の所どういった構造になっているのかという事だ。
そういった事を追求する事が別に絶対に正しいとか、本能で生きている人が愚かだとかそういった事は全く思っていない。むしろ、本能だけで生涯を真っ当出来るのであれば、それ以上に幸せな事は無いんじゃないかと思う。
自分は不幸せでも良いから、そういった考察を本能による希望的観測とかでうやむやにしたりせず、死ぬ間際まで考察し続けていたいと思う。そこから目を背けても、自分の場合は絶対に逃れられないと思うし、苦しかろうが何だろうが無意味だろうが、考察を続ける以外に道が無いと感じている。
話を本題に戻すと、10代の頃の自分に「生きているって何だろう?」と質問されて、仮に思うまま回答をするのであれば「たったの一つも意味の無い、そこらの蝿と完全に同等の時間を過ごすだけの事で、今君が絶対的だと思っている愛情や夢や希望の類は全て幻だ」と答えるだろう。
しかし、実際にはそんな事は言わない。適当にポジティブな回答を並べてお茶を濁すだろう。
なぜなら、10代の頃の自分にはまだ、本能だけで生きて生涯を終えられる可能性が残っているから、余計な事は言わずに幸運を祈るだけしかしないと思う。前述した通り、「幸せだと感じる人生」を過ごすためだけなら、理性や思考はなるべく無い方が良い。
バカらしい事をバカらしいと思わず、間違い無く絶対的な幸せだと勘違いして生きて死んでいった方が絶対に幸せを多く感じられると思う。だからその道から外れてしまうような余計な事は言わない。
がしかし、自分は完全に逸れてしまったのだと思う。本能が求める幸せがあるにはあるが、せいぜいその割合は10~20%程度、どれだけ本能に忠実に生きようと考えても、80~90%の理性が自分の幸せを奪いに来る。
だから、残念ながら考察を続ける以外に方法が無い。
しかし、この考察も別に100%不幸せな事だとは思っていない。苦しい事が9割以上を占める事は事実だが、本能だけでは見えない無限の可能性が感じられるからだ。
意中の異性をつかまえるだとか、大きい家を建てるだとか、そんな事よりもよっぽど関心のある信じられないような奇跡が私達の暮らす地球、そして宇宙では巻き起こっているのだ。
毎日当たり前のように吸っている酸素がある事、当たり前のように飲んでいる水がある事、ネコやワニなどありとあらゆる生命体が同じ空間で生活している事、三次元という空間を認識出来て、それを目で捕える事が出来る事、足で移動出来る事、これらは本当に信じられないような奇跡的な出来事だと思う。
更に人間は、そういった感動を言葉という形にしたり、音楽や絵のような芸術作品に具現化したりといった能力も持ち合わせている。
今この世界で巻き起こっている信じられないような奇跡を体全身で感じて、その感動を様々な形で体外に放出する、これこそが深い思考能力を持つ人間に相応しい生き方なんじゃないかと思う。
9割以上本能で生活している生き物であれば、寝たり、食べたり、セックスをしたりといった事を追い求める事が適切な生き方であり幸せの形だと思うが、理性や思考力で生きる人間は、やはり芸術と共に生活をする事が適切な生き方であり、幸せの形なんじゃないかなと自分は思う。
芸術によって自分の知名度を上げたり、美形のメスを捕まえたりだとかは、自分の中にある僅かな本能を喜ばせる程度の些細な幸せ、サブイベントのようなものだ。
思考や考察を重ね具現化する、ただその行為にこそ関心がある。
一つ贅沢を言うならば、そういった思考や考察について話し合える、同じ価値観をもった人が欲しい。全部が全部分かり合えなくてもよいから、どこか1部分だけでも通じ合える人と会話がしたいなとは思う。
会話によって更に自分の中の考察が洗練され、また一人旅に出る、今思いついた事だけれど、それは自分にとって、全てではもちろんないけれど、幸せなパーツの一つなのかもしれないな。
人を見下すようなつもりは全然無いんだけど、少なくとも自分の身の回りには、本能をベースで生きているような人が大半だ。こんなブログで書いているような話は到底出来やしない。
けれど、過去を振り返ってみると、少なくとも一部分に関しては価値観を共有して話を出来る人が居た。むしろ、結構いた。
考えてみれば、自分はそういった人達を、あまり大切に、貴重には扱えてなかったのかもしれない。何となく通り過ぎていく様子を傍観して、スタスタと自分は自分で自分の道をと淡々と前進してきてしまったのかもしれない。
とは言え、今考え直してみても、そういった人達に小まめに連絡をとったりとか、自分はそんな事は出来ないな。なぜなんだろう、そういう気が起こらないというのが本音だ。つまり、そういう性分の人間なのだろう。
「どこか1部分だけでも通じ合える人と会話がしたいなとは思う」と書いたけど、これは友人や恋人とか、自分の身の回りに留まるような存在ではなく、もっと不特定多数で色々な人とそういったやりとりをしながら生きていきたいのかもしれない。
毎日自分の考察を進める中で、何らかの芸術作品を発表して、それに反応する行きずりの人達と、双方思うがままにお互いの情報を共有し、また散っていく。
そんな繰り返しが出来て、自分の考えや作品が日々少しずつブラッシュアップされていく、そんな生活が自分にとって本当の理想なのかもしれない。
生きている事は無意味で無価値である事は間違い無いが、非常に奥が深く面白い出来事である事もまた事実だと思う。