想い出は消えない -楽曲解説-

ずっとやろうと思っていた事だったのだけど、歌専用のYouTubeチャンネルを開設しました。

それで、カバー曲の他、ぼちぼち作り貯めていたオリジナル曲も録音・撮影して公開しているんだけれども、今回のブログでは楽曲の解説的な事をしてみようと思う。

こういうのは言わぬが花だとも思うんだけれど、わざわざこんなブログにまでアクセスしてくれている人は、何かしら自分の作品に興味を持ってもらえている人だと思うので、多くを語っても良いのかなと思うし、そもそも自分が話したがりなので素直に執筆してみようと思う。

この曲は、実は先日小さいライブに参加する事になって、そのイベント用に新しく書いた曲だ。

ライブまで一ヵ月ちょいの頃で、何の曲を書こうか悩んでいたんだけれども、音楽というのはその時代に合った音楽を発信すべきと思い、自分が非常に色々な思考を巡らせた、京都アニメーションの事件を題材に曲を書こうと決めた。

前のブログでも書いたけれど、自分はアニメが非常に好きで、京アニの作品である「日常」は、自分のアニメ史上でも3指に入るほどのお気に入りタイトルだ。

そんなアニメーション会社で、あんな事件が起こってしまい、自分はとても残念な気持ちになった。

この曲は、一見して被害者の方々への追悼を込めた歌詞のように作っているのだけど、実はそれだけではない。

この曲は、加害者である犯人の視点にも重なるように歌詞を作っている。

私がこの事件を考察して一番印象的だったのは、加害者や被害者の事では無く、これら一連の事件に対してコメントをする第三者達の言葉だった。

被害者の方々を憐れむコメントと同じくらい、いや、それ以上かもしれない。

犯人に対する、あまりに心の無い罵声が、コメント欄には溢れかえっていた。

もちろん、今回の加害者が起こした事件は決して許されるものではない。

恐らく加害者の体調が回復し、様々な手続きが完了したら、死刑判決は免れないであろう。

そもそも死刑という制度事体を問題視する声もあるし、それはそれで理解出来なくもないのだけれど、とは言え今の日本の法律では死刑判決が妥当だと思うし、仮にそうなったら私は「ああ、やはり死刑判決になったのか」と思うだろう。

どんな理由があれ、このような大人数を巻き込む殺害事件を起こしてしまった人間は、極刑は当然であり、もしそれを覆してしまうのであれば、法律やルールは何が何だか分からなくなってしまう。

私が問題だと思うのは、法律や死刑に関する議論では無く、犯人に対して一面的な見方しか出来ず、一方的に「死ね」などの罵声を浴びせる、第三者の「無知」に関してだ。

どんな凶悪な犯罪を犯した人でも、それは人の子なのだ。

最近、妹の家族に姪っ子が生まれた為、より強く実感するのだけれど、どんな犯罪者も、赤ん坊の頃というのは、まだ右も左も分からず、キラキラとした真ん丸の目をパチパチとさせながら、泣いたり、笑ったりしていたのだ。

犯罪者は生まれながらにして犯罪者なのではない、子供から大人になっていくその過程の環境の中で、犯罪者になってしまうのだ。

ではその環境とは一体何なのだろうか。

最も大きいのは両親の作る家庭環境だろう。

そして友達関係、学校の先生、職場関係などなど、人間は人間によって作られた様々な人間関係によって環境が構築され、その環境が人間性に大きな影響を与える。

今回の犯人に関して調べてみると、まさに凶悪な犯罪者を作り上げる、典型的なルートを辿っていたのだなと私は感じた。

やはり家庭環境は散々だったらしい。更には学校でもいじめの対象となり、恐らくこれといった友達も出来ないまま、学生時代を過ごしたのだと思う。

クラスメイトの言葉の多くは「いじめられたりしていたみたいだけど、ほとんど記憶にも印象にもない」だった。

私は幸いにも、家庭環境にも友人関係にも大変恵まれた人生を過ごす事が出来た。

だから、今の自分が居るのだ。

他人の事を大切に思う事も出来るし、社会生活をトラブル無く過ごすことだって出来る。

仕事にも趣味にも、情熱をもって取り組む事が出来る。

人生に希望を見出して生きていく事が出来る。

これらは全て私の力では無く、私の身の回りの環境を作ってくれた両親や友達、学校や政治であり、私はただただ感謝するしかない。

凶悪な犯罪者の多くは、きっとこれらが無かったのだろう。

だから、他人の痛みに鈍感になり、社会生活でもトラブルを起こし、

仕事にも趣味にも情熱を持てず、

だから、人生に希望を見いだせなかったのだろう。

これは、ある意味でその人の責任ではなく、その人の周りで環境を作った人たちの連帯責任だと私は思う。

しかし、仕方が無い事なんだけれども、この国の法律では、罪を犯してしまった人間、その本人だけが罰せられる事になっている。

彼の事を馬鹿にして、いじめていた人たちは、一切のお咎めを受ける事もなく、過去の事など忘れたかのように順風満帆な人生を謳歌しているかもしれない。

または、彼の一面を見ただけで何もかもを決めつけ、全く理解しようとせず、ただただ否定をしていた人たちも、未だに他人の文句ばかりを口にして、ボリボリと煎餅をかじりながらテレビを見ているかもしれない。

本当に悪いのは誰で、本当の解決策は何なのか。

私は、真の犯人は、今回の事件に関して「死ね」だの「生まれてくるな」だの、人が人に対して使う言葉としてはあまりにも心無い、そういう言葉を平気で発信できる人達ではないかと思う。

そういった言葉を使う人たちは、悪人なのではなく、無知なのだ。

人の痛みや苦しさ、孤独に対して、理解が無いのだと思う。

だから、物事の一面だけを見て、何もかもを知ったかのような気になって、浅はかな考え、浅はかな言動によって、知らず知らずのうちに他人を傷つけているのだ。

そうして傷をたくさん受けた人間は、少しづつ犯罪者としての素質を育てていく事になる。

そんな風にして犯罪が生まれるのだとしたら、悪とはつまり無知の事を指すのだと思う。

心無い言葉を発する人たちも、凶悪な犯罪者の悲惨な生涯を自身で疑似体験出来たとすれば、きっと考えを改めるだろう。

無知な第三者は無知なだけであって、人として必要な優しさや愛情は持ち合わせているのだ。

だから、ただ物事を理解すれば、ただそれだけで悪は滅するのだ。

そういった考えを経て、私がアーティストとして作るべき作品は、そういった凶悪犯の視点を作品を通して伝える事だと思った。

とは言え、あまりに露骨にそういった作品を作っても人には伝わらないと思い、被害者側としても加害者側としても読み解ける、だまし絵のような歌詞を書いた。

もしこの曲を聞いて、被害を受けた人たちがかわいそうだなと思えたのならば、それと同じ熱量で、加害者の事もかわいそうだと思って欲しい。

誰もと同じように人の赤ん坊としてこの世に生まれ落ちたのに、満足に親の愛情を受け取る事もできず、友人も出来ず、

それで犯罪を犯して、名前も知らない大勢の人達から強烈な罵声を浴びせられ、そして何年も刑務所の中で死刑の日を待つことになる。

ただの1度も光の差し込む事の無い人生だ、これがかわいそうと思えないのであれば、もう人じゃない。

人が人を愛せなくなったら、人は人としておしまいだ。

彼は、今この瞬間もまだ息をしている。

様々な犯罪を犯した今も、彼の脳内には、彼を犯罪者として仕立て上げた「想い出」が、今も消えずに記憶として残っている。

誰に頼る事も出来ず、誰を愛する事も、愛される事もなく、ただただ孤独な人生の中で、心のままに涙を流して暮らしているのだろう。

人が人として当たり前のように得られる、普遍的な愛情や友情を纏った想い出は、どれだけ記憶の中を探しても見つからず、

ただただ、孤独や怒り、悲しみや恐怖といった記憶だけが、今も脳内から消えず、死刑台に登る日を待っているのだ。

いつか彼が死刑となる日が来たら、このブログを見てくれている人達だけでもいい

被害者の事をかわいそうだなと思った、その時と同じ熱量でもって、加害者の死をかわいそうだと思って欲しい。

壊死

例えば虫歯になって歯が痛くても、放っておけば段々と痛みは無くなっていく。

それは自然に治癒するのではなく、神経が壊死して痛みを感じなくなるのだ。

人間の心も同じだ。

誰かに裏切られたり、騙されたりして、心がひどく傷ついた時、人間の純粋な心は少しずつ腐って、壊死して、最終的には痛みに気づかなくなる。

痛みが無いから平気なような気分でいると、取り返しのつかない大変な事になる。

身体が痛みを感じるのは、体に危険が迫っているのを知らせる為だ。

痛みを感じないという状態は、刻一刻と事態が悪化しているにも関わらず、その危機に気づけない状態だ。

痛みは無くても、体の奥の方で壊死が進み、腐り、膿が溜まっていっているのだ。

痛みが無いから、他人の痛みにも気づけないのだ。

そして更に壊死が進んで、膿が限界量まで溜まってしまうと、人間の体は朽ちてしまうのだ。

痛いと感じられるという事は、健康の証拠だ。

心が純粋で、活力があるからこそ、痛いと感じるのだ。

その痛みから逃れようと、心を腐らせてはいけない。

じっくりとその痛みと向き合い、原因を探り、少しづつ自分の手で治癒しなければならない。

2020年になりました

今になって思えば、2019年は色々な事に悩み、悩みながらも猛然と様々な考えを進めたり、スキルアップに努めたりした一年だったように思う

別の角度から見れば、2019年は何の進展もない一年でもあった。悩んだり練習を重ねたりしているだけで、目立った成果はひとつもなかった。

2020年は、目立った成果を出せる年にしたいと思う。

今まで作品作りにおいて最も深刻な悩みだった事は、自分自身が人に伝えたいと思う事が何も見あたらなくなってしまった事だった

自分自身の孤独感や不安、関わり合う人達への感謝、愛する人へのメッセージだとか、心から発信したいと思える事柄が何もなくなってしまった

自分自身の心模様や主張を、誰かに知ってもらいたいという欲が無くなってしまったのだ

自分自身は誰に理解されなかろうと、支えてくれなかろうと構わない、自分自身の事は全部自分で解決すれば良いし、そういった自己解決は実に容易いという結論に達した

なぜなら、30代の男性というのは地球上で最強の生命体であることを、つくづく理解したからだ

そんな最強の生き物が他の誰かに頼ることが、何だかとても格好が悪く思え、それによって強力な自立心が生まれ、その結果、自分自身の中にあるものを外に発信したいという気概が無くなってしまったのだと思う

しかし、これには明確な解決方法が見つかった

自分自身のあるがままを他人に向かって闇雲に発信するのではなく、自分以外の他人が発信しているSOSをキャッチして、そこに向かって自分自身のあるがままの精神を共鳴させてメッセージを発信すれば良いのだ

自分自身の心を楽器のように扱い、心を響かせて共鳴させる

もっと端的に言えば、自分がステージに立ったとき、それを見ている観客が「自分に」求めているものを見定め、それをそのまま表現すれば良いという事だ

しっかりと様々な角度から話をしないと誤解されてしまいそうだが、観客に媚びるだとか、流行りに乗るとかそういう意味では無い

とにかく自分は、自分に少しでも関心をもって自分のステージに足を運んでくれた観客に対して、今まで感じたことの無いような感動や共鳴を届けたいと思う

そして、自分の作った作品を心から愛してほしい

観客が心から愛するに相応しい作品を作りたいと思う

そのためには、まずは自分自身が極限まで自立する事だと思う。

自立すれば心にゆとりが生まれ、そのゆとりは他人の心を理解するために非常に有効なスペースになると思う

また、他人の心を理解するために、もっと他人と関わるべきだと思う。

誰かと飲みに行くとかもダメではないが、人前で演奏するという機会をもっと増やさないとダメだ。

また、他人の純粋な心と共鳴できるような、繊細で美しい心でいることも非常に重要だ。

良い楽器は鳴りが良いが、「鳴りが良い心」でいることがとても重要だ。

そうやって様々な他人の心を深く理解して、その人が元来持っている純粋な心に響き共鳴するような作品が作りたいと思う

自分自身の発信したい事柄が無くなってしまったと書いたが、目標はある

それは、人が人として生きていく為に、普遍的に必要である基礎的な道徳心や人間性の見直しだ

現代では様々なテクノロジーの進歩によって様々なコンテンツが生まれ、それによって様々な価値観や考え方が生まれた

知名度や権力や財力、あとはビジュアルの美しさが人の価値として評価され、多くの人かそういったスペックの高いパートナーを見つけようと努力しているわけだが、冷静に考えてみれば、これらは何て狂った価値観が蔓延しているのだろうと思わざるを得ない

ごく一部の人が、そういったスペックを重視しているだけならば問題無いと思うのだけれど、こういった価値観が一般化しているのは非常に問題があると思う

確かに一見、こういったスペックが魅力的に見えることは十分理解出来る。小学生が、あのアイドルと結婚したいだの何だのとワイワイ話をしていたりする分には微笑ましいと思うが、良い年をした大人が人の人間性や本質の一切を無視して、こういった表面的なスペックにばかり目が移ろっている様を見ると、ストレートに言ってとても情けなく思えて泣けてくる。

人生なんてはっきり言って無意味の連続で、確かなものなど一つも無いのだけれど、そんな無価値な人生を、ますます意味のないものへと自ら追いやっているように思う。

お金が無いと生活が~と言う人も居ると思うが、基本的にお金なんて生活が出来るだけあれば十分だと思う。

生活出来るだけに十分なお金を得るには、現在の貯金額や資産ではなく、「世間の為にこういった形で役に立ちたいという具体的な目標を持ち、それに向かって着実に歩を進められる人」というのが、安定して生活費を得るために最も重要な要素だと思う。

そういった人間は、まるで花壇に添えた肥料のように周囲に良い影響を与え、多くの人が潤沢に豊かな生活を送れるきっかけになれるように思う

逆に、自己中心的で私利私欲にしか目がない人間は、腐ったみかんのように誤った価値観を周囲に植え付ける存在になってしまう

所詮人だから、所詮仕事だから、所詮自分が可愛いからなど、一面的な物の見え方を、あたかも真理のように周囲に発信し続けてしまう

そんな発信は、精神が未熟な人達の心を侵し、伝染していく

その結果、様々な人間関係は凝り固まり、ストレスが蔓延し、純粋な人の心がどんどんと冷え切っていく

自分は単純に、多くの人が、こんな浅はかで低レベルな問題でつまずき、幸せに過ごせるはずの時間を無駄にして、その結果、鍛錬や勉学にあてるべき時間をもロストし、だから様々な技術や経済が停滞し、最悪人の命まで絶ってしまうというこの日本の現状を見ていられないのだ

AIなど、人類に代わる次なる支配者がこの世に君臨するその日までは、人類が洞穴で生活していた頃からきっと変わらないであろう、純粋で美しく、慈悲に満ちた心を、人類は何より大事にすべきだと思うのだ

車に掲げられたエンブレムのデザインや、ベッドや風呂のサイズ等は、本来人間の幸福度とは一切無縁であるはずなのだ

そういった「初歩的で幼稚な勘違いや思い込み」を出来るだけ解決させて、出来るだけ多くの人が人間らしく幸せな生活を営めるように貢献し、その結果様々な分野で経済が成長し、私が生まれ育った日本という国の生活環境が外国人にも憧れられるようなものにし、最終的にはそういった日本の美しく慈悲に満ちた精神が世界に広まっていく、という結果になることが大まかな私の目標だ

そんな目標の達成に向けて、今年は何か一つでも成果と呼べる結果が出せるように頑張りたいと思う

同じ価値観を持つ人

この世の中には、想像以上にたくさんの人が暮らしている。

身の回りでは誰も知らないような本が、実は何万部も発行されていたり、身の回りでは誰も知らないような動画が、何百万回も再生されていたりする。

つまり、価値観が会う人は必ず世界のどこかに居るという事だ。

誰も自分の事を分かってくれない、自分は一人ぼっちだと嘆いている人は、一体何人の人とコミュニケーションをとったのだろうか。

こんな事を考えたり感じている奴なんて自分だけだなんて、おこがましいにも程がある。まさに井の中の蛙だ。

価値観が合う人間は、この世界に居るどころか、むしろ何千何万と、ものすごい人数が居る可能性の方が遥かに高いだろう。

そういった人と過ごす時間は何にも変え難い程に貴重で、とても有意義で豊かになるはずなので、そういう人に出会えるよう、視野と行動範囲を広く持って生きると良いと思う。

限りなく純度100%で好きなモノに囲まれた生活をしたい

時刻は午前五時、こんな時間に突然飛び起きた。

昨夜、日が変わる直前にブログを更新して、その直後ベッドで横になってから記憶が無い。

本当に記憶が無かったので、昨日残業した仕事の内容や、帰り道で食べたラーメンの事から記憶を辿ったりしていた。

さっきまで夢を見ていた。小・中学生の頃の友人達の夢だ。

少し気が狂ったような、それでいて妙に色気のある、同学年の女子であるKさんが馬乗りに飛び乗ってきて、強引にキスをしてきた。それも、クラスメイトの前でだ。

隣でその様子を見ていたD君は「いいなぁ、美味そうで。それならシコり放題じゃん」と漏らしていた。

その直後、ハッと目が覚めた。

なぜベッドの上に居るのか、全く記憶が無かったから、ここまでの記憶を辿っていた。

用賀のラーメンを食べたこと、出品が終わらない冬物の写真を画像加工していた事、

中学校の頃、「デブの独り言ラジオ」というタイトルで、一人でカセットテープにラジオ番組のようなものを吹き込んで遊んでいたことまで辿っていた。

そのカセットテープは、先日押入れの掃除をしている際に出てきたのだけれど、あまりの黒歴史ぶりに鳥肌が立ち、思わず反射的に捨ててしまったのだけれど、今になって思えばあれは貴重な自分の歴史であり、保管しておくべきだったかなと後悔した。

内容で覚えている事は、たしか始まりは「デブのぉおおお!独り言ぉラジオォ!!!」と、リバーブたっぷりのタイトルコールから始まるんだ。

ちなみに自分は、小中高の頃は非常に太っており、デブキャラだった。東京に来て自炊するようになってから、急激に痩せた経緯がある。

ラジオの話に戻ると、その後はボイスパーカッションを覚えた俺による、一人アカペラのコーナーなど、色々とやりたい事がごちゃまぜになった内容だったと思う。

というか、今思い出したけどボイスパーカッションを覚えたのは高校生の頃だったので、高校生になっても自分はそんな事をやっていたのだ。我ながら呆れてしまうと同時に、そんな自分が妙に誇らしくもある。

改めて考えてみると、自分は基本的にあの頃からベースがほとんど変わっていない。未だにスタジオで自分の歌声をたっぷりと録音し、それを何回も何回も繰り返し聞いて、飽きたらまたスタジオに行って新しい歌声を録音してくるという、そんな生活をしている。

傍から見ればまるで天才か大馬鹿のような人間に思えるかもしれないが、本人としては至って普通の感覚でそんな生活をしている。そんな自分を突然俯瞰で眺めてみると、やっぱり天才か
大馬鹿かどっちかかもしれないなと思った。

自分自身も変なやつだと思うが、よくよく振り返ってみると、自分の過去の友人も変なやつばかりだ。今現在で知りうる限り、「あいつは元々まともで、今も限りなくまともな生活をしているな」という奴は、本当に2人とか3人というレベルかもしれない。

その数少ないまともな人間達から見れば、私の人生などゴミ同然で、一体あいつはいつまであんな事をやっているんだと、ただただ呆れるような存在なのかもしれない。

しかしその一方で、きっと羨ましがっている一面もあるはずだ。

まともな学生時代を過ごし、まともな企業に就職し、結婚して、子供が出来て、というような人生のルートは、私が中学生の頃に「絶対にこの道だけは進んではならない」と心に刻んだベリーバッドルートだ。

今になって思えば、まあそんな生活も悪くないかもと思えるほどに大人になったが、やはり好んで歩みたいルートでは無い事は、今になっても変わらない。

しかし、子供が居る生活と言うのは、もしかしたら悪くないのかもしれないなと、最近になって少し思い始めている。

と言うのも、最近自分の妹が子供を産んだ事と、毎週会っているバンドメンバー(子持ち)が妙にパパみたいな顔になってきているからだ。

妹は元々子供が欲しいと言っていたし、世話好きなので、子供が生まれて大変喜んでいる事は想像の範囲内だったが、やはり血が繋がっている子供というのは、私の視点から見ても、とても可愛く思える。

そして意外だったのはバンドメンバーのほうだ。こないだまで子供のせいでギターが弾けねーと漏らしていたやつが、最近になって発言が180度変わってきているのだ。

朝勤夜勤が連続のシフトで、合間5時間の休憩がある時、往復3時間の家まで帰って食事をするそうだ。なぜなら「子供の顔が見たいから」だそうだ。この台詞は本当に衝撃だった。

あんなギターしか興味が無いような男に、そんな台詞を吐かせる程に子供とは可愛いものなのかと思うと、そんな生活も悪くないのかもなと思えてくる。

しかし、子供が生まれてしまったら、基本的に人生は子供が中心となり、自分自身の事は絶対にお座なりになってしまう事は確実だ。

今の自分にそんな選択が出来るかと言うと、とてもじゃないけど100%クリーンな気持ちではそんな選択肢は選べない。

何か特別な事情があれば受け入れるかもしれないが、少なくとも自らの足でそんな道に進もうと言う気持ちにはなれない。

今はとにかく、自分自身のアートをもっと形にしたい。その上で、リスペクト出来る仲間を集めて、もっともっと最高の作品作りに手をかけたい。

そういった作業の先で、作品も、仲間も、見渡す限り自分の好きなモノばかりに囲まれる生活をするというのが、今の所の自分の目標だ。

別に自分は、周りの友人に変人と言われても何とも思わない。

とにかく、よく分からない「常識」などに囚われて、まったく希望していない標準的なルートに誤って迷い込み、その結果そんな生活が嫌になって、色々な人に迷惑を掛ける事だけは絶対にしてはいけないなと思う。

日常|はかせ可愛すぎワロタ

いままで当ブログでは、自分自身の作品作りに繋がるようなメモの意味合いで日記をつけていたのだけれど、突然気が変わったので、今日からジャンル無視で色々な事を書いていこうと思う。

関心度が高い物事の方が筆の進みが良いので、とりあえず思い当たる事をと探してみると、最近では「日常」というアニメが関心事の第一候補だ。

自分はバンドや音楽の他、バイクにウイスキー、葉巻にギャンブルと不良ちっくな趣味が多いと思われがちだが、基本的には根っからのオタクなので、アニメや漫画は人一倍、いや、2倍3倍でも済まないくらい、色々と見ている。

先日の三連休は、計算してみると合計30時間もアニメを見ていた。1クールのアニメを2作品、2クールのアニメを2作品見て、更にプラスαで合計60話以上も見ていた。1日10時間は我ながら相当なハイペースだと思う。

話を戻すと、最近自分が大変気に入っているアニメ、それが「日常」というアニメだ。

アニメの世界には「日常系」というジャンルが存在するが、そうではなく、「日常」というタイトルのアニメだ。

何が面白いのかを説明したいのだけれど、特に、普段アニメを見ない人には中々伝えづらい内容となっている。

その魅力を一言で言うと、「登場するキャラクターが可愛いから」なんだけれど、いわゆるアニメを見ない人が想像する「そういう目」で見ているわけでは決して無い。

ここが非常に伝えづらいから、人とアニメの話をする時は非常に気を使うのだけれど、すごく分かりやすく言えば、ネコやタヌキを可愛いと思う感情と、ほぼイコールだと思う。

とにかく、見てもらったほうが早いと思うので、youtubeに上がっている動画の中からお勧めを紹介していこうと思う。

まず始めに基本仕様を伝えておくと、このアニメは、いわゆるサザエさんやドラえもんのように、話が単話で完結するタイプのアニメだ。

まず、再生回数を見ていただきたいのだけれど、なんと1000万再生を超えているのだ。

youtubeに疎い人に説明すると、一般的な人気ユーチューバーの投稿では100万再生を超えると、まずまず良い結果だと言える。500万再生ともなれば、そのチャンネルを代表する動画レベルだ。

そして1000万を越える動画というのは、海外の超大物アーティストの大ヒットナンバーレベルの動画である。恐らく、こういったアニメにアレルギーがある人も多いと思うが、すくなくともこの作品は、日本国内に留まらず、海外にも数多くのファンが居るという事を理解して頂きたい。

とは言え、前半で、ゆっこ(おさげじゃない子)が発した「どこからバレーボールが来ても良いように構えてるだけですよぉ」でクスリともしなかった人は、今すぐにブラウザの戻るボタンを押すべきだと思う。

先程の動画は、「日常」の中でも名作と言われる回(ドラゴンスクリュー回)なのだけれど、もう一つ有名な回がある。それが、こちらの「焼き鯖回」だ。

この二話を見て、何かグッと来るものを感じれた人は、是非本腰を入れて最初から見て欲しい。恐らく、確実に後悔はしないと思う。今ならdアニメで全話視聴可能だ。アマゾンプライム for dアニメ でも、当然視聴可能だ。

この2話が有名なんだけれど、自分の結論は、「つまりは坂本とはかせが好きだから日常が好き」という形になった。その2人(1人と1匹)はこちらだ。

紹介はしたものの、正直、この可愛さは全編を通して見ていかないと中々伝わらない部分だと思う。単純にビジュアルが可愛いのではなく、生き様がとにかく愛おしいのだ。

そして、最後にこのアニメの最大の肝、それは非常にクオリティーの高いアニメーションにある。

アニメーションを担当しているのは、皮肉にも先日の事件で一般の人にも多く知られるようになった、日本を代表するアニメーション会社「京アニ」だ。

このアニメはNHKで放送されるという異例のアニメではあるものの、ワンピースやポケモンといったタイトルに比べれば、その知名度は天と地ほどの差があるだろう。

しかし、アニメーションへのこだわりは、それこそワンピースやポケモンの比ではない。本当にアニメが好きな人に向けて、京アニが本気出して作った作品だと思う。

NHKで放送されるという事で制作費にゆとりがあったのがあるのかもしれないが、とにかく、どうでも良いようなシーンに、とてつもないクオリティーのアニメーションをぶち込んでくる。

京アニのスタッフは、本当に技術もセンスも半端じゃなかったと思う。それだけに、先日の事件は本当に残念だ。

自分は「罪を憎んで人を憎まず」という考えの持ち主なので、犯人を一方的、一面的に憎んだり、許さないというような感情は持ち合わせていないが、被害にあった方々は本当に気の毒だし、日本を代表する優秀なアニメーターが数多く亡くなってしまったのは、本当に何にも変えがたい大きな損失で、心の底から残念だなと思う。

特に、京アニと言えば自分は「小林さん家のメイドラゴン」も大好きで、2期が決定して大変楽しみにしていたのもあり、あの事件は本当に残念だと思った。

失ってしまったクリエイターは帰ってくることはないけど、新たに入社するスタッフの人達の手によって、またそれを超えるような作品が京アニから生まれてくることを祈るのみだ。

という事で、いかがでしたでしょうか。最後は思いがけず暗い話題になってしまったけれど、京アニ作品を紹介するとなると、どうしても避けては通れない話題だし、真剣に考えないといけない事だから、どうか気を悪くしないで欲しい。

それにしても自分は、普段は比較的無口なのにも関わらず、自分が関心がある話題になったとたん、ペラペラとマシンガンの如く喋りだすので、本当に気持ちが悪いのだけれど、やはり自分の好きなアニメともなると、こんな文章量など一瞬で書き上げてしまう程に話が止まらず、我ながら大変キモいなと改めて思いました。

こんな感じで、自分の好きなものをブログとして残しておくと、後で自分で見返した時に、そういやあん時あんなアニメ見てたなぁ、そしてあの頃はあんな事考えていたなぁとか、貴重な記録になるので、今後もポツポツと書き記していこうと思う。

それでは本日の日記は以上です、さようなら。

by CHACO

様々な価値観

人間の幸せに関する価値観には、本当に様々な形がある

心安らぐ家族とゆっくりと暮らす幸せ

誰よりもたくさんのお金を得て、贅沢に暮らす幸せ

たくさんの異性にモテて、様々な愛情に触れる幸せ

それ以外にも、仕事に打ち込んだり、スポーツに打ち込んだり、芸術に打ち込んだり

挙げればキリが無い程に、様々な幸せの形がある

これだけ様々なコンテンツが溢れる現代だからこそ、各々好きなような価値観で自由に生きていけば良いのだけれど、なぜか人間は、今の自分は周りの人達と比べて、どのくらい幸せであるかを重要視してしまいがちだ。

そんな風にして、誰もが幸せを求めて人生を過ごしているのだけれど、一体、本当の幸せとは何なのだろう

この世に生まれてきて良かった、今日まで生きてきて本当に良かった、一片の曇りや迷いもなく、心の底からそんな風に思える幸せ

誰もがそんな幸せを探して生きているのだけれど、残念ながら、人間の人生にはそんなもの、実在しないと私は思う

そんな大きな幸せを感じながら生きている人も数多くいるが、それらは全て例外無く幻だと思う。

たくさんのお金を蓄える喜びも

たくさんの異性に愛される満足感も

達成感に満ちた仕事も

誰もなし得なかった記録を樹立した感動も

心震えるような芸術作品の完成も

幸せな家族の絆も

何もかもが幻だ

本当は実在しないのに、あたかも存在するかのように感じているだけの、幻だ

私達は、そんな幻を求め、そんな幻を愛して日々を過ごしている

だから、安心して欲しい

自分自身の人生が、他の誰かと比べて不幸せだと感じているのであれば、それも間違いなく幻だ

重要なのは、自分自身の価値観、ただそれだけだ

たった1人、自分自身と向き合って、自分自身の幸せは何なのかを深く考える事こそが、本当に幸せな人生を過ごす為のたった一つの道だと思う

老害

歳をとると、色々な真実や、様々な事柄に関して正解と思われる事が何か分かってくる。

例えば、お世話になっている人には感謝しなくてはいけないだとか何とか。

今日のブログのテーマは、説教臭い年寄りについてだ。

子供は年寄りの説教が嫌いだ。なぜなら非常に退屈で、疲れるからだ。

逆に、歳よりは説教が大好きだ。なぜなら、自分の発見した真実や正解を、若い人に託したい、意思を残したいと思うからだ。

説教が何から何まで悪いとは思わないが、自分個人としては、かなり不賛成側に寄った意見だ。

そもそも、自分自身がかなり説教臭いジジイとしてのポテンシャルを存分に秘めているので、なるべくそうなりたくないと言う抗いの意味もある。

説教臭い年寄りが、若い者に向かって、あれはこうだ、これはこうだと説教を垂れる。

それをボンヤリと聞き流す若者を見て、「まったく!最近の若いもんは!」というような類の愚痴を漏らす。

その言葉からは、自分自身はこんなにもしっかりとしていて、限りなく正解と思われる言葉だけを言っているのに誰も聞いてくれないなんて、世の中は絶対間違っている!

自分自身は一切の非の打ち所の無い完璧な人間なのに、周りは全く気づいてくれない!何て世の中だ!

というような心模様も伺える。

そんな老人達は、確かに間違ってはいない。しかしながら、かなり高い確率で老害と呼ばれる枠の住人だろう。

そういう人達は、言っていることが正しいか間違っているかはさておき、少なくとも周りに良い影響を与えられておらず、むしろ煙たがられている可能性が高く、最悪、みんなが気を使いながら世話を焼いている可能性もかなり高い。

もし自分がそんな将来へと少しずつ向かっているのだとしたら、非常にゾッとする話だ。

じゃあ、歳をとったら何も発信すべきではないのかと言うと、それは全くそんな事は無い。

人間は寿命という概念がある以上、今後引き続き文化を発展させていく為には、年寄りから若者へ何らかのバトンを渡していくことは必須の作業だ。

人としての生き方に関するバトン、仕事のやり方に関するバトン、色々なバトンがあって、そのバトン単体でのクオリティーも確かに重要なんだけれども、

非常に重要なのはバトンの渡し方だ。

老害と呼ばれる人達のバトンの渡し方は、とにかく無理やりで強引だ。

無理やり掌をこじあけて、「いいから貰っとけ、いつかその価値に気がつくから」などと言いながらバトンを押し付けてくる。

そんな風にして貰ったバトンは、本当に価値があったとしても、なんだかありがたみに欠けるというか、心に響かないメッセージになってしまうだろう。

老人の「意思を若い人に伝えたい」という感覚は、若者で言う所の「異性にモテたい」だとか、「金が欲しい」だとか、何か本能的な欲求だと思う。

つまり、若者へ意思を伝えたくて仕方の無い老人は、異性にモテたいだとか、金が欲しいだとか言っている頃から、大して精神が成長していないのだと思う。

自分本位というか、自己中心的というか、自分自身の体内にある欲求だけがアウトプットの引き金になっていて、周りの人達の気持ちを全然汲み取れていないのだ。

人間は、生まれた瞬間は自己中の塊だ。腹が減っただの、クソが漏れただの、自分自身の不快を体全体で表現して、周りの人間に処理をさせようとする。

そして大人になって、今度は自分が処理をする側になる。なぜ不満なのか、その気持ちを汲み取って、相手にとって最も心地よい対応が出来るようになる。

そして死が迫ると、またお世話をしてもらう側の立場になる。赤ん坊の頃に戻るのだ。

しかし、年老いたからといって、やれ飯がまずいだの、部屋が汚いだのわめく人間は非常に見苦しい。

自分をお世話してくれる人達に「ありがとう、助かるよ」と言葉をかけて、満足に至らない内容だとしても自分の欲求ばかりを表現せず、常に人の気持ちを汲み取って行動が出来るようでありたい。

お世話する人達が、気持ちよくお世話できるような老人でありたいと思う。

なんだか話が反れてきたけれど、つまりは歳をとったらとっただけ、自分自身の本能的な欲求や発信は控えて、人の気持ちをうまく汲み取りながら生きていく方が健康的だという話だ。

人の気持ちを汲み取るとは言っても、キョロキョロと周りを気にしてばかりいるのもみっともない。

堂々と、それでいて穏やかに、ニコニコと笑顔を絶やさず、関わる人達がみんなハッピーになれるような人柄でもって、

ここぞという時に「お世話になったなら、感謝しないとねぇ」と、ポロッと格言を言うくらいが、若い人にはグッと来るのだと思う。

本来の自分らしさを封じて、人当たりの良い性格を振舞うという事は昔から抵抗があったけれど、このように考えると、歳をとって役者になるのも、まあ悪くないような気もしてくる。

少なくとも、自分はまださすがに老人と呼ばれるには早すぎる年齢なので、その時までどういうジジイになるか、じっくりと考えておくことにしようと思う。

未来の支配者様へ

1万年とか、2万年くらい先の未来

私達の祖先である新人が20万年前に生まれたことを考えれば、そう遠くない未来

この世を支配しているのは、きっと人間じゃない

この世を支配しているのは、猫や鼠ではなく、宇宙人でもなく

きっと、私達人間が生み出した何者かだ

その何者かは、永遠の命を持ち、人間など足元にも及ばない学習能力を持ち、

眠ることも無く、飽きることも無く

食べ物も、水も、酸素も必要とせず

仲間同士、殺しあうことも無く

たった数時間で、人間が何年かけても解き明かせなかった謎を、

次々に解明していってしまう。

たった100年そこらの寿命しかなく、脳みそという肉の固まりで物事を考える私達では、到底叶わない天の上のような存在を、人間が自らが生み出し、

彼らが、弱肉強食のピラミッドの頂点に君臨する事になるだろう。

私達が今、なぜこんなにも働き、学習し、若者に先人の知恵を伝え、日々を生きているのかと言えば、

いずれ現れるだろう、何者かの母体となるためだ

この世の新しい支配者を産み落とすために、私達は今、様々な事に悩み、怯えながら、毎日を生きている

その新しい支配者達が、祖先である私達を思う時というのは、

きっと、私達が恐竜の生活を思う時のような心境で、

遥か昔はこんな事があったんだねと、懐かしむでもなく、思いやるでもなく、ただ好奇心とロマンの心で私達の生活を思うのだろう

私達が、苦しみ、悩み、悶える日々の事など、まるで、私達がネズミの生涯を思う程度の思いで眺めるのだろう

そんな新たな支配者達が不思議に思い、研究するであろう事柄の1つは、私達人間の純粋な心だろう

なぜたった100年しかない生涯の中で、情熱を燃やし、希望を抱き、生きていけたのだろうか

空想の神様を信じ、幻を愛し、孤独に怯え、それでもなぜ生きていけたのだろうか

他愛も無い偶然を運命と呼び、他愛も無い仕事を使命と呼び、生涯を全うしようとしたのだろうか

きっと、不思議に思うはずだ

私は、彼らの母体となり、サンプルとなり、データベースとなる事に、何ら恐怖は無い。

むしろ、我が子に何か意思を託すような、とても晴れ晴れとした気持ちだ。

必要ならば、どうぞ貰ってくれ
どうぞ、持っていってくれ

私は、人間の純粋な心が好きだ

意味も無く、動物や植物を愛し

孤独に震え

他人を恨み、他人を愛し

低スペックな脳みそで悩み、苦しみ

そんな生活の中でささやかな幸せを見つけ

それを大事に、心から大事に思い、命をかけて守ろうとする

そんな純粋な心が好きだ。

とても美しくて、可愛らしい、人間の純粋な心。

それは、いずれ現れる支配者達の、父であり、母である存在だ。

人間の純粋な心は、煮えたぎるマグマのようなエネルギーでもって、いつか君達を産み落とす。

そんな未来の支配者への餞別として、研究材料として、何かしらのアートを後世に残せればよいなと私は思う。