人生の最後に確実な死が待っているというのは、これ以上無い人生の救済処置だと思う。

どんな金持ちも、有名人も、誰もが間違い無くいつかは死ぬ。

どんなに過ちを犯そうとも、最後には間違い無く死ぬ事が出来る。 「死」さえ受け止められてしまえば、人生は楽しい事だらけだ。

誰と比べる必要も、競い合う必要も無く、何を我慢する必要も、遠慮する必要も無い。

生きる幸せを見出す為には、まずは死と深く向き合って観察する必要があると思う。

美人と不美人

これは日本だけなのか、海外も同じなのかは分からないが、ビジュアル至上主義があまりにも横行し過ぎなように思う。

これは勝手なイメージなのだけれど、昔の時代に「美人」と呼ばれていた女性は、単に見た目が美しいだけでなく、身振りが美しかったり、言葉遣いが美しかったり、そして何より心が美しかったから「美人」と呼ばれていたのではないかなと思う。

現代の日本には大人数の女の子アイドルグループが乱立され、アニメなどでも萌え絵の女の子が溢れ、そういった影響かどうかは分からないが、単に見栄えが良いだけの女性が「美人」と呼ばれているように感じる。

その結果、男性は見た目が良い女性ばかりを追いかけて、女性は見た目を良くしようとばかり努力する。

心は、どこへ行ってしまったのだろうか。

もちろん全員がそのような思考では無いと思うが、男女関係なく、私と同じような疑問を抱く人は少数派なのではないかなと思う。

美人の「美」という字は、見た目の美しさだけでなく、美しい心の「美」も含まれるべきだと私は思う。

見た目を美しく保つ事も重要だが、やはり人間は心の美があってこそ、初めて豊かな人生が送れるはず。

例え見た目が整っていなくとも、年老いたとしても、ブレない志をもった女性、動物や植物を愛せる女性、人の心が分かり思いやりのある女性は、紛うことなき「美人」だと私は思う。

年収1000万円

年収1000万円は、多くの日本人の目標であり、憧れだ。

それは何故かと言うと、日本人の平均年収が400万~500万円だからだろう。

幸せは、他人のそれと比較する事で実感をしやすい。

比較的高価な腕時計や、比較的高価な車に幸せを感じているわけで、その時計や車を所有する事自体には、そこまで価値を感じていない事は多い。

恐ろしく高価な時計や車を買う人は多いが、この時計は何年に発明された何とかという技術でどうのこうのだとか、このエンジンはあのレースで使用された何とかだとか、そんな事を言う人は稀だと思う。

そういった比較による幸せの感情で、たくさんの物が売れているし、それによって経済が回っている事も事実なので、そういう何もかもを否定するつもりはないが、個人的にはそういった考え方は非常に浅はかで、人生の豊かさの上限を自分自身で著しく下げてしまっているように思う。

生きることは楽しい。

最高に耳の肥えた職人が作ったギターを弾くことも出来るし、大好きな街の風景をお気に入りのカメラとレンズで写真に収める事も出来る。

自分好みにカスタマイズしたバイクで海沿いを走ったり、お気に入りの革ジャンを着て、オシャレなバーでウィスキーと葉巻を楽しんだりする事も出来る。

それらが、自分の大好きな友人や家族と一緒なら尚良い。但し、ひとりぼっちでもそれはそれで悪くない場合も多いのだが。

とにかく、幸せは何なのかを考える時には、周囲を見渡すのではなく、自分自身とじっくり向き合ってみると良いのではないかなと個人的には思う。

人生って何だろう

高校生の頃は、毎日そんな事ばかりを考えていた。

人によっては、そんな事考えてもしょうがないだとか、若さ故の何とか等、そもそも深く考える事が間違いのように言われるが、人間として生まれた以上、いくつになってもじっくりと向き合うべきテーマだと思う。

また、人間の命は、死んだら天国に行くとか、生まれ変われると言った、他の生命体と違う特別な存在だというような考え方もある。

それは、事実がどうであるかはさて置き、少なくとも私は、そういった考え方自体を否定はしない。

なぜなら、世の中には心が繊細で弱い人間が数多く居て、そういった人達にとっては、仮に嘘だとしても、そういった考え方を信じていないと生きていく事すら困難になる場合があるからだ。

要するに「事実をウヤムヤにする」という作業は、意外にも人間の暮らしには必要不可欠なのだ。お酒なんかもその類だと思う。

人間は他の動物と比べて頭が良すぎるから、他の動物とは違うユニークな生活スタイルになるのだと思う。

そういった事を全て取り除いて、もっと「事実」という視点で人生を考えてみると、人間の生涯は、コバエの生涯と比べて何ら変わらないものだと思う。

コバエの寿命は約1~2ヶ月で、確かに人間はその何百倍も生きる事が出来る。

しかしそんな事は、何百億年もの歴史がある宇宙の上ではあまりにも些細な事だ。

私達がシマウマとシマリスの生涯にさほど違いを感じないように、もっと広い視野で考えれば、人間とコバエの生涯もさほど違いは無いはずだ。

その話から、「深く考えてもしょうがない」だとか、「人間だけは生まれ変わる」のような事に話をすり替えたり、事実をウヤムヤにするのではなく、「人間もコバエも同じ」という話をベースに、人生は何なのかを深く掘り下げて考えていきたい。

集団行動と単独行動

動物には、集団行動をするものと、単独行動をするものがいる。

例えばシマウマは集団行動をする動物だけれど、遥か昔は単独行動をするグループもあったらしい。

なぜ今では単独行動をするシマウマが居ないのかと言うと、繁殖して生命を繋ぐという意味で単独行動が個性に合わず、絶滅してしまったからだそうだ。

集団行動の最大のメリットは、異性がすぐ近くに居る為、繁殖しやすい事らしい。

人間界にも集団行動を好むグループが居るが、確かに繁殖し易そうだ。

逆に、単独行動の場合は異性が見つけ難いが、そんな環境での出会いはとてもロマンチックだなと思った。

集団行動のグループにも、単独行動のグループにも、それ相応の文化とルールがある。

その2つに優劣をつけてもいけないし、価値観をごちゃまぜにしてもいけないと思う。

孤独は純粋な心を蝕んでいく

嫉妬や僻みで心を安定させようとしていく内に、純粋な心はどんどんと鈍感になっていく。

本当は心にも無い前向きな考えや、一見辻褄の合った夢なんかを語っていく内に、心はどんどんと疲弊していく。

孤独は、恐い。

人生は孤独だから、この恐怖は誰にも解決出来ない。

友人や恋人、家族にも解決出来ない。

人生は孤独だと気づかず死んでいく人も居るが、気づいてしまった以上、たった1人、自分で解決するしかない。

だけど、孤独から逃れる為に、純粋な心を切り売りしてはいけない。

純粋な心は人生の宝だ。

純粋な心があるから、人生は美しいし、楽しいし、愛おしいのだと思う。

それに孤独は、純粋な心を育む為に最も重要な栄養だ。

孤独を前にして、逃げたり、誤魔化したりするのではなく、しっかりと対峙して、それが何者なのかをじっくりと観察する必要がある。

2019年は、どんな時代だろうか

かつて日本の音楽が盛り上がっていた時代、
ヒットチャートにはこの国の世論を示すような歌が多く並んでいた

戦後まもなくは、皆で前を向いて、根性で突き進んでいこうというような
そんな価値観が良しとされていて、みんなその道に向かってまっすぐ進んでいたのだと思う

2019年、今の世は何だろう

命を削って仕事をして、根性で生き抜く時代は終わったのだろう
不合理な価値観や常識に、振り回される必要も無くなった
集団行動から外れても、それなりに楽しいことが多い時代になった

個性が尊重されるようになり、各々自由に生きているせいで、
誰もが納得するような大筋の生き方なんてものも見当たらなくなった

世間では一応流行というものがあるが、
ミーハーで視野の狭い一部の人間が、相変わらずマスコミに振り回されているだけで、
何か本当に国民の心をひとつに取りまとめるような道が無くなった

2019年は、自由で孤独だ

単独行動の選択肢が増えたりして、生きていく事が比較的容易になったから、
家族との絆なんてものも少し弱くなったのではないだろうか

利害関係の一致によって結婚したりだとか
これまでの常識を何となく受け入れて家族と言う体裁を作ったりだとか

色々便利な時代にはなったが、情報も洪水状態で
何が何だかさっぱり分からない、混乱状態だ

誰かの用意した道を歩くような時代は終わり、
それぞれが、それぞれの価値観で、それぞれの道を発見する必要が出てきた

その為に、まずは全身で自由を感じる必要がある

その気になれば何だって出来る
出来ないことなど何もない

2019年は、自由で孤独だ

たった一人で死ぬ運命

たくさんの人達が、昨日までの事を懐かしんでいる
たくさんの人達が、昨日までの過ちを悔やんでいる

その想いは誰の目に留まることも無く
いつも孤独な心の中で渦巻いている

あなたが大好きなあの人も、あなたと同じように孤独を感じていて
あなたの事を大好きな人も、同じようにあなたが孤独を感じている事を知っている

それは私達が生まれてくる、ずっとずっと昔から続く運命

目を覆う事は出来ても、拭い去る事は出来ないし
気づかない事は出来ても、忘れ去る事は出来ない

互いの孤独を愛し合う事は出来ても、分かち合う事は出来ない

私達は、たった一人で生まれ
たった一度も他人の孤独と交わる事無く
たった一人で死んでいく運命

もしあなたが、孤独を前にして、
不安や、恐怖を感じているのであれば、
それは、あなたが純粋な心の持ち主だから

純粋な心は、あなたに不安や恐怖を与え
それと同時に、あなたの大好きな人に降りかかる不安や恐怖を
感じ取る事が出来る

だから絶対に、純粋な心は捨ててはいけない

一途に人を信じて生きたい

世の中には悪い人も居て、誰もを信じることは出来ないけど、良く相手を観察して、その上で自分が信じると決めた人の事は、一時も疑わず、黙って信じて生きていたい。

但し、安易に人に頼ってはいけない。

信じるという事は、何らかの恩恵が途絶えた時も、何も変わらず信じ続けられるような関係だ。

その何らかの恩恵が途絶えた時、不満を感じたり、関係を破棄しようと思うなら、それは信じているのではなく、利用したり、すがったりしているだけだ。

ギブアンドテイクを求めてもいけない。

例え相手からの支援が途絶えたとしても、こちらは変わらず与え続け、信じ続けていたい。

信じ合うことを求めてもいけない。

何の見返りも求めず、自分自身の不安や孤独は全て自分自身で制御して、信じると決めた人を、ただ一方的に信じ続けるだけでいい。

そうやって一途に人を信じる為に、まずは、目の前に転がっていて、今にも掴めそうな自分自身の幸福を、全て放棄した方が良い。

なぜならそれは幻で、自分自身で拾い上げる事は出来ないからだ。

自分自身の幸福は、自分以外の誰かに拾って与えてもらう必要がある。

だからこそ、自分が信じると決めた人の、その足元に転がっている幸福を拾い上げて、何も見返りを求めず、一方的な善意でもって、その人に渡してあげると良い。

それが一途に人を信じるという事であり、それが自分自身が幸福になる為に最も重要で、唯一の方法だ。

そんな風に一途に信じられる人は、世界にたった1人だけでも良い。

たった1人でも見つかったのだとしたら、それは何とも比較が出来ないほど、大変に幸福な人生だと思う。

愛されたいと願う事は罪なのだろうか?

恋人や家族、両親に友人、人間はこの世に生をうけると、様々な人達と関わり合って暮らすことになる。

その中で自分が周りの人から愛されたいと願う事は、人間として当然の感情のはずだ。

しかし、その愛されたいという欲求が通らなかった時、人間の心は絶望し、疑心暗鬼になってしまう時がある。

また、愛されたいと思う余り、相手の機嫌や心理を探り、自分の本音を隠し、愛される為だけに用意した言葉や行為ばかりを選んでしまったりもする。

要するに、愛されたいという感情は、自分の冷静な判断の妨げになり得る。

愛されたいという感情が無ければ、平静の心のまま、人に無償の愛を与えることも出来るし、誰かからの愛情が突然途絶えてしまった時も、一人で冷静に次の進路を見つけ出す事が出来る。

では、愛されたいと願う事は罪なのだろうか?

誰かに愛していると告げられた時、人の気持ちはどう動くのだろうか。

それは、言葉がどうとかではなく、言われた相手が自分にとってどんな存在なのかによる。

全く無関心な相手の場合、相手の希望に沿うことが出来ない息苦しさや、断り方次第では自分の身に危険が及ぶ可能性あるという恐怖、自分に対する若干の自信の芽生えなど様々な感情が生まれる。

自分自身も好意を寄せている相手であれば、心は充実し、安堵し、愛する人と一緒に居るという安らぎの心になる。

但し問題なのは、人の心は移ろうという事だ。

無関心だったはずの相手に対して、いつからか好意を寄せるようになる事もあるし、好意を寄せていた相手が、いつからか無関心になるような事もある。

ずっとずっと未来の人間の世界では、愛情という感情はどのようになっていくのだろうか?

過去を遡ってみると、原人の時代はきっと獣のようにお互いを求めたり、奪ったり、突き放したりという感じだったと思う。

また、天候や飢餓などに震える中、芽生えた強い絆なんかもあったと思う。

要は、時代は変わっても、その辺の人間の感情は、そこまで大きくは変わっていないのではないのかなと思う。

強いていえば、現代では情報が増え、平和な地域が増えた為、より冷静かつドライな人間関係が増えたのかなとは思う。

結論を言うと、人に愛されたいという感情は罪でも正義でもなく、人間にとって極日常的で自然な感情なので、無理に押さえ込みすぎず、とはいえ出しすぎに注意し、丁度良いバランスになるように出力をコントロールして、上手く付き合っていけたら良いのだと思う。

時に出力調整が上手くいかない場合もあるが、人間が時折体調を崩してしまうのと同じように、それもまた人間の姿であり、愛しむべき個性でもあるので、悪や罪とはせず、人間らしく支え合って暮らしていくのが良いと思う。