嘘と幻の違い

家族や恋人を愛しているという感情は、幻ではあるが嘘ではない。

但し、その人の為に命を賭けられないのであれば、それは幻ではなく嘘なのかもしれない。

只一つ間違い無い事は、命が絶えればそのすべて消えてしまうのが現実だという事だ。

嘘は虚しく悲しいが、幻は美しく魅力的で、人類の希望そのものだ。

命は揺れている、こんな街で。

命は揺れている、こんな街で。

心も揺れている、こんな場所で。

大好きなあの人も、ベッドの上で揺れている。

純粋な心を、捨てたくなってきている。

子供が凸凹道を歩いていく。

その目はキラキラと輝いてる。

美しい幻が子供達の瞳を輝かせる。

僕はそれが、とても美しいと思った。

嘘と真実

もしも、幸せや充実といった事柄の全ては幻に由来した感情で、

悲しみや苦しみといった事柄の全ては現実に由来した感情だとしたら、

現実に目を背けて、幻に溺れて暮らす人達は生涯幸せと充実に溢れ、

幻を見定めて現実の中で生きる人達は、生涯苦しみや悲しみと向き合って過ごすことになるだろう

だとしたら、自分はどうしたいのだろうか。

少なくとも、どちらかに偏った生き方は全くもって望まない

嘘だらけの中で偽物の幸せに身を埋めるのもゾッとするし、

苦しみや悲しみしかない世界で生きていくのも御免だ。

苦しみや悲しみもあるけれど、その道の先で、スッと希望の光が差し込むような、そんなドラマチックでバランスの良い塩梅がベストだと思う。

何が真実で何が嘘かなどはどうでも良いことだ。

最も重要なのはバランス、真実の中に適量の嘘を紛れ込ませ、安心して摂取出来るギリギリの量の嘘。

嘘が適量混ざることで、真実がより信憑性を増し、信じたいと思えるほどの信頼感や輝きを纏う。

そんな絶妙なバランスこそが最も重要だと思う。

厳しい現実の中で垣間見える幻こそが、人類にとって最大の幸せなのかもしれない。

ニーチェの本を読んで

先日、ふらっと立ち寄った本屋で哲学にまつわる本を読んだ。

それがとても面白く、立ち読み(蔦谷家電なので座り読み)で最後まで読みきってしまった。

それで、もっと哲学について知ってみたいなと思い、その本の中でも紹介されていた哲学者「ニーチェ」に関する本を読んでみた。

哲学なんて、自分の人間性的に最も関心を持ちそうな話ではあったが、自分でも意外なほど「哲学」とジャンル分けされた本は今まで一度も手に取った事が無かった。

読んでみた感想は、とても興味深く面白い内容ではあったものの、特別目新しい発見はほとんど無く、自分が普段感じていることが文字として分かりやすくまとめられているばかりであり、ただただ、自分の考えていた事はやっぱり概ね正しいんだろうなと思う結果となった。

一瞬、ニーチェと同じ結論に天然で辿りつくなんて、オラってもしかして天才なのかも、、、!と思ったが、要するに今まで自分が手にしてきた本であったり、見聞きした話と言うのが、間接的にこういった哲学的な考えに沿った内容となっているため、自ずと自然に身についていたのだと思う。

ニーチェの思想は一言で語るのが実に難しいが、簡単に言うと「世間体だとか富とか地位とか順位とか、そういった一般的な幸福の指標と言うのは全て幻なので、自分がこうありたいとか、こうなりたいという自分本位の成長欲求に従い、周りとの順位など気にせず、将来の事や結果にも惑わされず、ただただ死ぬまでその欲求通りに精進し、死ぬ間際になったら「また同じ人生でもいいぐらい楽しい一生だったなぁ!」と、精進した事自体に満足して死ぬといいよ」というような内容だ。

ただ、本の内容にはいくつかは自分が辿り着けていなかった共感できる考え方や話もあった。

ひとつは、キリスト教に関する話だ。

このブログでは、トラブルに繋がりかねないという考えから、これまで意図的に宗教にまつわる話はタブーとして書かないできたのだが、今回読んだ本は出版社によって出版された本であるにも関わらず、惜しみなく宗教にまつわる話がされていたので、ああ、別に歯止めを利かせなくて良いのかもなと思い、今日を機に宗教にまつわる話も解禁しようと思う。

自分は、宗教にまつわる話に非常に関心があり、一言で言えば好きな話題だ。

それは、神様を信じてるとか何とかと言う信仰心によるものではなく、人間がこれまで宗教と共に生活をしてきた歴史の成り立ちに関心があるという話だ。

自分は、宗教自体を否定するつもりはないし、信仰するも批判するも、別に自分の居ない場所で自分に全く被害を蒙らないのであれば、他人が他人同士好き勝手討論するなり殴りあうなりすればいいと思っているが、どちらかと言えば、やっぱり人間には必要なものなのかもな、少なくとも現代においては、と思っている。

しかし、キリスト教に関してだけは、あくまで個人的にではあるけれど、あまり好きではない、というか、はっきり言って嫌いまである。

この宗教こそが人間の生活を煙にまき、うやむやな価値観を蔓延させ、人間を本質から遠ざけた元凶であり、だから身の回りに自分にとって面白みのないコンテンツが増え、自分の人生における退屈を増長させてきていると感じて、ストレートに言ってムカついている。

ただ、それでもやはりキリスト教を含め、現代の人間の価値観においては宗教は必要なものであり、それによってたくさんの人が幸せな生涯を送れたのだろうと思うし、だからこそ宗教は存在すべきものだったのだろうなという結論に落ち着いている。

ニーチェは、キリスト教を奴隷道徳だと説いているらしい。

いわゆる、キリスト教の教えにもある、苦しみに耐え善行を尽くした人間は天国にいけるというのは、現実社会で勝利を勝ち取れなかった奴隷が唱えた負け犬の遠吠えのような戯言だという話だ。
(ちなみに、当時実際に奴隷として扱われていたユダヤ人が作ったユダヤ教がキリスト教の始まり)

だから、いわゆる苦しい事に我慢することが正しいだとか、権力ある人に従うことが美徳とされている道徳的な考え方というのは、あまりに不憫で馬鹿馬鹿しい現実逃避の負け犬考えだ、これは人間が本来進むべき生き方を大きく逸脱している、というような事を言っている。

誤解の無いように早めに弁護しておくと、別にニーチェは弱いものいじめをしているわけではなく、ただ事実を淡々と述べて、そんな奇天烈な思考の渦中にいる人間を救い、まっとうな人生のルートに導きたいという想いから、そういった言い方をしている。

自分は、人間の道徳的な考え方がとても好きだ。とても暖かいし、ほのぼのするし、可愛らしいからだ。

だから、こういった道徳的な思考は、人間が元来持ち合わせた本質的な部分かと思っていたのだが、ニーチェの言葉を聞いて、別に真実だとか本質だとか正義だとかとは程遠い幻だと知った。

そんな話をすると、なんだか自分がネガティブで後ろ向きで皮肉な考えに陥ってるように思われそうだが、むしろ真逆で非常に晴れ晴れとした気持ちで「なるほどねー!これはすっきり!」という面持ちだ。

哲学的な話というのは、特に序章では「生きる意味はない」的な話が続き、恐らく誰もが絶望的な気持ちになるのだけれど、これはクスリで言う所の苦いとか不味いとかいう感覚に近くて、まさに治療途中では避けては通れない感覚だと思う。

この苦味の先に、本当の解決や希望が見えてくるのだ。

少し話を戻して、道徳の話に戻ると、上述した通り、人間の道徳的な思考というのは真実でも本質でもなく、元を辿れば奴隷達が作り出した負け犬思考なのかもしれない。

しかし、それを踏まえても自分は道徳的な思考が好きだ。

これが正義でなくても真理でなくても構わない、単純に自分自身が好きなのだ。

なぜなら、とても暖かくて、ほのぼのするし、何より可愛いからだ。

もっと言うと、その裏側には、とても冷たい現実や、ぎすぎすした人間関係や、おぞましいほどの狂気が「陰」として存在し、その表裏一体が実に美しく、これをアートとして具現化したい!という衝動にかられる。

今まで、自分は道徳的な考え方が好きでありながら、根っからの正義や優しさは持ち合わせていないなと自覚し、そこに一つの矛盾を感じていたが、この本を読んだことによって、そういった劣等感というか未熟感が拭い去られ、迷いが無くなった気がする。

自分は誰に尊敬されるような正義や優しさは持ち合わせていないが、ただひとつ言えることは、そういった人間の純粋な道徳心が、影に潜む邪心も含めてとても可愛らしく思え、とても好きであり、それだけは揺ぎ無い自分の心だなと思えるようになった。

自分的には、ニーチェの本を読んだことによって、またひとつスキルアップ出来たような気でいるが、いわゆる常識的な価値観から見れば、また一歩逸脱してしまったのかもしれないなと思えたが、そのことさえも少し誇らしく思える自分は、もう常識人とは大きくかけ離れてしまったのかもしれないなと、また誇らしく思えた。

今日は、自分が滅多にテーマとして選ばない、恋愛についてブログを書いてみようと思う。

作詞において大定番のテーマと言えば、間違い無く恋愛に関わる話だろう。

なぜ、自分が恋愛を作品作りにおいてテーマとして選ばないかというと、単純に感動に欠けるからだ。

例えば、平和に暮らしていた母子が突然の事故で離れ離れになってしまっただとか、家族にまつわる話というのは自分はとても感動する。

また、戦争など人の生き死にに関わる話というのも、私はとても興味深く、実に感動する。

他にも人生のあり方だとか、人の孤独についてなど自問自答系の題材も、自分は非常に興味深く感じる。

しかし、燃えるような恋に落ちて心ときめく時間を過ごし、その後でお互いのすれ違いで恋愛が終わってしまった、等というのは、悲しいでも感動でもなく、何というか五体満足で健やかに過ごせて良かったね、というような感想に落ち着いてしまって、いまいち製作欲がかき立てられないのだ。

そういった形で、特にここ数年の作品作りや作品鑑賞において軽視し続けていた恋愛だが、最近はもう一度見直してみようという気持ちになっている。

そのきっかけとなったのは、自分の作る作品が、どれも非常に重く、もうちょっとリラックスして鑑賞出来るような作品も作ってみて良いのではないかと思うようになったからだ。

恋愛というのは、人の生活に置いて普遍的に刺激的な要素であり、加えて多くのことを学ぶきっかけにもなるので、特に若いうちは恋をしたほうが良い場合が多いと思う。

恋愛はとても美しく、それでいて儚い、まさに幻のようなものだ。

なので、年をくってからもあまりに追いすぎてしまうと、幻想に振り回されて実の無い生き方になってしまいがちなので、あまり人生の絶対的な要素にはせず、陽炎のような人生の甘い一面という程度に留めておいたほうが懸命だと個人的には思う。

しかし、世の中のラブソングというのは、どこか恋愛狂のような主人公が登場しがちなので、いまいち感情移入や共感が出来ず、遠ざけていたコンテンツだ。

ここまで書いたテキストを読み返してみると、仮にこれが正論なのだとしても、とてもじゃないが人に共感を与えられるような作品は作れそうにない。

やはり、恋愛を題材にする場合は、もっとその感情に没入して、不合理に気づかず、狭い視野の中で作品作りをするような形が最も感動的な作品が出来ると思う。

恋愛とは、大人としての人間性を培うだとかいう話と真逆を行くようなコンテンツではないだろうか。

しかしそれはとても美しく、とても充実した時間を与えてくれる。

獣のように愛し合うか、もしくはそんな心境を模したような心模様を描かないと、素晴らしい作品は作れないのかもしれない。

頑張り屋

人間の体というのは、実にチープな作りだなと最近良く思う。

私達がごく当たり前に摂取している魚の体の構造と、大まかに言えばそんなに変わらない。

顔には目があって、口があって、

その口から食べ物を摂取すると、いくつかの内臓によって栄養が摂取され、

最後はその残りかすが糞となって体外に排出される。

そういった行為によって、一定期間生命は生き、活動をする事が出来る。

大体そんなような仕組みの生命体が、少しずつ特徴を変えて様々な種類に分類され、それらが地上で共に生活を送っている。

鳥、猫、ワニ、鶏、これらは一見大きく異なるようで、根本的にはそれほど大きな違いは無い。

獣たちは食べ物を口やくちばしで直接摂取するが、人間は獲物を皿に盛ってから摂取をする。

世の中には色々な動物がいるけど、人間は本当に変わった生き物だ。

とは言え、野生の獣たちとはそれほど大きくは変わらない。

だから、生きている意味だとかも、野生の獣たちと大きくは変わらないのだろう。

芝生を走り回ったり、おいしい食べ物を摂取したりする事が幸せだから生きている。

病気で苦しんだり、ケガでうずくまったりするのが嫌だから、そうならない手段を探している。

そうやって生き抜いた先に何があるのかと言えば、そうやって生き抜けたんだなという満足感や達成感があるだけで、それ以外は特に用意されていない。

苦労してクリアしたゲームソフトの最後には、そのゲームの製作に関わったスタッフロールが流れて幕を閉じる事になるが、大体そういった感じと同じだ。

うまくクリアすれば、最後はエンディングらしい演出を見る事は出来るが、それまで蓄えたレベルやゴールドは無価値となり、そこから先のストーリーも用意はされていない。

また、途中で力尽きてしまった場合は、ゲームオーバーという悲しい演出を見ながらゲームは幕を閉じ、そこから先のストーリーは用意されていない。

どんな結末を迎えようと、どの道そこから先のストーリーは用意されていないのだが、唯一異なる事は、途中でゲームオーバーとなってしまった場合、本来用意されていたストーリーを辿る事が出来ないという事だろう。

例えば、新しい友と出会ったり、その友と一緒に強大な壁に立ち向かったり、そんな友と別れたり、

そんな様々なドラマを体感出来ずにストーリーが終焉するというのは、まさにバッドエンド、ゲームオーバーだろう。

特別主だった冒険が無かったとしても、人間の脳内では様々な思考が行き来して、見えにくいだけで様々なドラマが存在する。

毎日家の中でとじこもっているだけの人も、様々な葛藤や憧れ、怒りや絶望が脳裏を巡っている。

私達人間は、最後のエンディングを求めて人生を生きているわけではなく、その道の途中に転がるドラマを求めて生きているのだと思う。

だから、どんな結末を迎えたいかよりも、どんなドラマを見たいのかという考え方で進む道を探せば、自ずと充実した人生となり、自然と求めていたエンディングにも辿り着けるのではないだろうか。

自分の場合、求めているドラマというのは、たくさんの尊敬でき信頼できる友が居て、彼らと協力して大きな夢を叶え、その達成を記念して旨い酒と飯を食う。

そしてまた新たな夢を見つけて、同時に新しい友と出会う、そんな繰り返しだ。

常に人がそばに居なくても構わない、むしろ一人きりの時間は自分の人生にとって非常に重要で充実した時間なので、人生の6~7割くらいは一人ぼっちが良い。

そんな一人ぼっちの時間で技術や精神の鍛練を行い、残りの1~2割でその力を発揮する、そんな繰り返しが理想的だ。

順位や記録には特別こだわりはない、ビジネスにせよアートにせよ、空想や理想を具現化するという作業に一番の喜びを感じるからだ。

どんな空想や理想を具現化したいのかと言うと、純粋で美しく、感動的で情熱的なものだ。

そして純粋で愛すべき他人が笑顔になって、健やかに充実した人生を送る、自分の活動がそんな事の手助けになれれば良いと思う。

とは言え、そういった活動に人生を支配されるのもごめんだ。

まったく休暇が無く、毎日スケジュールに圧迫されるような人生は全くもって望まない。

人生の1~2割くらいは休暇が良い。

一人で過ごすのならば、ただダラダラと旨い酒と飯を食らい、ゴロゴロと映画や漫画や音楽など好きなコンテンツを摂取するだけという至福の時間は絶対に捨てがたい。

誰かと過ごすのならば、心から安らげるような人と心から面白いと思える遊びをしたり、ただダラダラと時の流れを感じたりだとか。

そういった休暇は必要だ。

とは言え、休暇が10割も願い下げだ。

鍛練6割、行動2割、休暇2割、それが自分の理想のバランスだ。

何らかしらの目標を見つけ、その達成に向けて日々鍛錬し続ける事が、自分の人生においてメインディッシュなのだと思う。

今日は何となくPCを立ち上げ、特に思う事もないまま適当に筆を走らせてブログを更新してみたが、何とも取り留めも無い文章がダラダラと出力され、まさにこんな感じの思考の動きが、普段の自分の脳内の状態なんだなと再認識した。

自分は、自分が思っている以上に頑張り屋なのかもしれないなと思った。

想い出は消えない -楽曲解説-

ずっとやろうと思っていた事だったのだけど、歌専用のYouTubeチャンネルを開設しました。

それで、カバー曲の他、ぼちぼち作り貯めていたオリジナル曲も録音・撮影して公開しているんだけれども、今回のブログでは楽曲の解説的な事をしてみようと思う。

こういうのは言わぬが花だとも思うんだけれど、わざわざこんなブログにまでアクセスしてくれている人は、何かしら自分の作品に興味を持ってもらえている人だと思うので、多くを語っても良いのかなと思うし、そもそも自分が話したがりなので素直に執筆してみようと思う。

この曲は、実は先日小さいライブに参加する事になって、そのイベント用に新しく書いた曲だ。

ライブまで一ヵ月ちょいの頃で、何の曲を書こうか悩んでいたんだけれども、音楽というのはその時代に合った音楽を発信すべきと思い、自分が非常に色々な思考を巡らせた、京都アニメーションの事件を題材に曲を書こうと決めた。

前のブログでも書いたけれど、自分はアニメが非常に好きで、京アニの作品である「日常」は、自分のアニメ史上でも3指に入るほどのお気に入りタイトルだ。

そんなアニメーション会社で、あんな事件が起こってしまい、自分はとても残念な気持ちになった。

この曲は、一見して被害者の方々への追悼を込めた歌詞のように作っているのだけど、実はそれだけではない。

この曲は、加害者である犯人の視点にも重なるように歌詞を作っている。

私がこの事件を考察して一番印象的だったのは、加害者や被害者の事では無く、これら一連の事件に対してコメントをする第三者達の言葉だった。

被害者の方々を憐れむコメントと同じくらい、いや、それ以上かもしれない。

犯人に対する、あまりに心の無い罵声が、コメント欄には溢れかえっていた。

もちろん、今回の加害者が起こした事件は決して許されるものではない。

恐らく加害者の体調が回復し、様々な手続きが完了したら、死刑判決は免れないであろう。

そもそも死刑という制度事体を問題視する声もあるし、それはそれで理解出来なくもないのだけれど、とは言え今の日本の法律では死刑判決が妥当だと思うし、仮にそうなったら私は「ああ、やはり死刑判決になったのか」と思うだろう。

どんな理由があれ、このような大人数を巻き込む殺害事件を起こしてしまった人間は、極刑は当然であり、もしそれを覆してしまうのであれば、法律やルールは何が何だか分からなくなってしまう。

私が問題だと思うのは、法律や死刑に関する議論では無く、犯人に対して一面的な見方しか出来ず、一方的に「死ね」などの罵声を浴びせる、第三者の「無知」に関してだ。

どんな凶悪な犯罪を犯した人でも、それは人の子なのだ。

最近、妹の家族に姪っ子が生まれた為、より強く実感するのだけれど、どんな犯罪者も、赤ん坊の頃というのは、まだ右も左も分からず、キラキラとした真ん丸の目をパチパチとさせながら、泣いたり、笑ったりしていたのだ。

犯罪者は生まれながらにして犯罪者なのではない、子供から大人になっていくその過程の環境の中で、犯罪者になってしまうのだ。

ではその環境とは一体何なのだろうか。

最も大きいのは両親の作る家庭環境だろう。

そして友達関係、学校の先生、職場関係などなど、人間は人間によって作られた様々な人間関係によって環境が構築され、その環境が人間性に大きな影響を与える。

今回の犯人に関して調べてみると、まさに凶悪な犯罪者を作り上げる、典型的なルートを辿っていたのだなと私は感じた。

やはり家庭環境は散々だったらしい。更には学校でもいじめの対象となり、恐らくこれといった友達も出来ないまま、学生時代を過ごしたのだと思う。

クラスメイトの言葉の多くは「いじめられたりしていたみたいだけど、ほとんど記憶にも印象にもない」だった。

私は幸いにも、家庭環境にも友人関係にも大変恵まれた人生を過ごす事が出来た。

だから、今の自分が居るのだ。

他人の事を大切に思う事も出来るし、社会生活をトラブル無く過ごすことだって出来る。

仕事にも趣味にも、情熱をもって取り組む事が出来る。

人生に希望を見出して生きていく事が出来る。

これらは全て私の力では無く、私の身の回りの環境を作ってくれた両親や友達、学校や政治であり、私はただただ感謝するしかない。

凶悪な犯罪者の多くは、きっとこれらが無かったのだろう。

だから、他人の痛みに鈍感になり、社会生活でもトラブルを起こし、

仕事にも趣味にも情熱を持てず、

だから、人生に希望を見いだせなかったのだろう。

これは、ある意味でその人の責任ではなく、その人の周りで環境を作った人たちの連帯責任だと私は思う。

しかし、仕方が無い事なんだけれども、この国の法律では、罪を犯してしまった人間、その本人だけが罰せられる事になっている。

彼の事を馬鹿にして、いじめていた人たちは、一切のお咎めを受ける事もなく、過去の事など忘れたかのように順風満帆な人生を謳歌しているかもしれない。

または、彼の一面を見ただけで何もかもを決めつけ、全く理解しようとせず、ただただ否定をしていた人たちも、未だに他人の文句ばかりを口にして、ボリボリと煎餅をかじりながらテレビを見ているかもしれない。

本当に悪いのは誰で、本当の解決策は何なのか。

私は、真の犯人は、今回の事件に関して「死ね」だの「生まれてくるな」だの、人が人に対して使う言葉としてはあまりにも心無い、そういう言葉を平気で発信できる人達ではないかと思う。

そういった言葉を使う人たちは、悪人なのではなく、無知なのだ。

人の痛みや苦しさ、孤独に対して、理解が無いのだと思う。

だから、物事の一面だけを見て、何もかもを知ったかのような気になって、浅はかな考え、浅はかな言動によって、知らず知らずのうちに他人を傷つけているのだ。

そうして傷をたくさん受けた人間は、少しづつ犯罪者としての素質を育てていく事になる。

そんな風にして犯罪が生まれるのだとしたら、悪とはつまり無知の事を指すのだと思う。

心無い言葉を発する人たちも、凶悪な犯罪者の悲惨な生涯を自身で疑似体験出来たとすれば、きっと考えを改めるだろう。

無知な第三者は無知なだけであって、人として必要な優しさや愛情は持ち合わせているのだ。

だから、ただ物事を理解すれば、ただそれだけで悪は滅するのだ。

そういった考えを経て、私がアーティストとして作るべき作品は、そういった凶悪犯の視点を作品を通して伝える事だと思った。

とは言え、あまりに露骨にそういった作品を作っても人には伝わらないと思い、被害者側としても加害者側としても読み解ける、だまし絵のような歌詞を書いた。

もしこの曲を聞いて、被害を受けた人たちがかわいそうだなと思えたのならば、それと同じ熱量で、加害者の事もかわいそうだと思って欲しい。

誰もと同じように人の赤ん坊としてこの世に生まれ落ちたのに、満足に親の愛情を受け取る事もできず、友人も出来ず、

それで犯罪を犯して、名前も知らない大勢の人達から強烈な罵声を浴びせられ、そして何年も刑務所の中で死刑の日を待つことになる。

ただの1度も光の差し込む事の無い人生だ、これがかわいそうと思えないのであれば、もう人じゃない。

人が人を愛せなくなったら、人は人としておしまいだ。

彼は、今この瞬間もまだ息をしている。

様々な犯罪を犯した今も、彼の脳内には、彼を犯罪者として仕立て上げた「想い出」が、今も消えずに記憶として残っている。

誰に頼る事も出来ず、誰を愛する事も、愛される事もなく、ただただ孤独な人生の中で、心のままに涙を流して暮らしているのだろう。

人が人として当たり前のように得られる、普遍的な愛情や友情を纏った想い出は、どれだけ記憶の中を探しても見つからず、

ただただ、孤独や怒り、悲しみや恐怖といった記憶だけが、今も脳内から消えず、死刑台に登る日を待っているのだ。

いつか彼が死刑となる日が来たら、このブログを見てくれている人達だけでもいい

被害者の事をかわいそうだなと思った、その時と同じ熱量でもって、加害者の死をかわいそうだと思って欲しい。