様々な価値観

人間の幸せに関する価値観には、本当に様々な形がある

心安らぐ家族とゆっくりと暮らす幸せ

誰よりもたくさんのお金を得て、贅沢に暮らす幸せ

たくさんの異性にモテて、様々な愛情に触れる幸せ

それ以外にも、仕事に打ち込んだり、スポーツに打ち込んだり、芸術に打ち込んだり

挙げればキリが無い程に、様々な幸せの形がある

これだけ様々なコンテンツが溢れる現代だからこそ、各々好きなような価値観で自由に生きていけば良いのだけれど、なぜか人間は、今の自分は周りの人達と比べて、どのくらい幸せであるかを重要視してしまいがちだ。

そんな風にして、誰もが幸せを求めて人生を過ごしているのだけれど、一体、本当の幸せとは何なのだろう

この世に生まれてきて良かった、今日まで生きてきて本当に良かった、一片の曇りや迷いもなく、心の底からそんな風に思える幸せ

誰もがそんな幸せを探して生きているのだけれど、残念ながら、人間の人生にはそんなもの、実在しないと私は思う

そんな大きな幸せを感じながら生きている人も数多くいるが、それらは全て例外無く幻だと思う。

たくさんのお金を蓄える喜びも

たくさんの異性に愛される満足感も

達成感に満ちた仕事も

誰もなし得なかった記録を樹立した感動も

心震えるような芸術作品の完成も

幸せな家族の絆も

何もかもが幻だ

本当は実在しないのに、あたかも存在するかのように感じているだけの、幻だ

私達は、そんな幻を求め、そんな幻を愛して日々を過ごしている

だから、安心して欲しい

自分自身の人生が、他の誰かと比べて不幸せだと感じているのであれば、それも間違いなく幻だ

重要なのは、自分自身の価値観、ただそれだけだ

たった1人、自分自身と向き合って、自分自身の幸せは何なのかを深く考える事こそが、本当に幸せな人生を過ごす為のたった一つの道だと思う

老害

歳をとると、色々な真実や、様々な事柄に関して正解と思われる事が何か分かってくる。

例えば、お世話になっている人には感謝しなくてはいけないだとか何とか。

今日のブログのテーマは、説教臭い年寄りについてだ。

子供は年寄りの説教が嫌いだ。なぜなら非常に退屈で、疲れるからだ。

逆に、歳よりは説教が大好きだ。なぜなら、自分の発見した真実や正解を、若い人に託したい、意思を残したいと思うからだ。

説教が何から何まで悪いとは思わないが、自分個人としては、かなり不賛成側に寄った意見だ。

そもそも、自分自身がかなり説教臭いジジイとしてのポテンシャルを存分に秘めているので、なるべくそうなりたくないと言う抗いの意味もある。

説教臭い年寄りが、若い者に向かって、あれはこうだ、これはこうだと説教を垂れる。

それをボンヤリと聞き流す若者を見て、「まったく!最近の若いもんは!」というような類の愚痴を漏らす。

その言葉からは、自分自身はこんなにもしっかりとしていて、限りなく正解と思われる言葉だけを言っているのに誰も聞いてくれないなんて、世の中は絶対間違っている!

自分自身は一切の非の打ち所の無い完璧な人間なのに、周りは全く気づいてくれない!何て世の中だ!

というような心模様も伺える。

そんな老人達は、確かに間違ってはいない。しかしながら、かなり高い確率で老害と呼ばれる枠の住人だろう。

そういう人達は、言っていることが正しいか間違っているかはさておき、少なくとも周りに良い影響を与えられておらず、むしろ煙たがられている可能性が高く、最悪、みんなが気を使いながら世話を焼いている可能性もかなり高い。

もし自分がそんな将来へと少しずつ向かっているのだとしたら、非常にゾッとする話だ。

じゃあ、歳をとったら何も発信すべきではないのかと言うと、それは全くそんな事は無い。

人間は寿命という概念がある以上、今後引き続き文化を発展させていく為には、年寄りから若者へ何らかのバトンを渡していくことは必須の作業だ。

人としての生き方に関するバトン、仕事のやり方に関するバトン、色々なバトンがあって、そのバトン単体でのクオリティーも確かに重要なんだけれども、

非常に重要なのはバトンの渡し方だ。

老害と呼ばれる人達のバトンの渡し方は、とにかく無理やりで強引だ。

無理やり掌をこじあけて、「いいから貰っとけ、いつかその価値に気がつくから」などと言いながらバトンを押し付けてくる。

そんな風にして貰ったバトンは、本当に価値があったとしても、なんだかありがたみに欠けるというか、心に響かないメッセージになってしまうだろう。

老人の「意思を若い人に伝えたい」という感覚は、若者で言う所の「異性にモテたい」だとか、「金が欲しい」だとか、何か本能的な欲求だと思う。

つまり、若者へ意思を伝えたくて仕方の無い老人は、異性にモテたいだとか、金が欲しいだとか言っている頃から、大して精神が成長していないのだと思う。

自分本位というか、自己中心的というか、自分自身の体内にある欲求だけがアウトプットの引き金になっていて、周りの人達の気持ちを全然汲み取れていないのだ。

人間は、生まれた瞬間は自己中の塊だ。腹が減っただの、クソが漏れただの、自分自身の不快を体全体で表現して、周りの人間に処理をさせようとする。

そして大人になって、今度は自分が処理をする側になる。なぜ不満なのか、その気持ちを汲み取って、相手にとって最も心地よい対応が出来るようになる。

そして死が迫ると、またお世話をしてもらう側の立場になる。赤ん坊の頃に戻るのだ。

しかし、年老いたからといって、やれ飯がまずいだの、部屋が汚いだのわめく人間は非常に見苦しい。

自分をお世話してくれる人達に「ありがとう、助かるよ」と言葉をかけて、満足に至らない内容だとしても自分の欲求ばかりを表現せず、常に人の気持ちを汲み取って行動が出来るようでありたい。

お世話する人達が、気持ちよくお世話できるような老人でありたいと思う。

なんだか話が反れてきたけれど、つまりは歳をとったらとっただけ、自分自身の本能的な欲求や発信は控えて、人の気持ちをうまく汲み取りながら生きていく方が健康的だという話だ。

人の気持ちを汲み取るとは言っても、キョロキョロと周りを気にしてばかりいるのもみっともない。

堂々と、それでいて穏やかに、ニコニコと笑顔を絶やさず、関わる人達がみんなハッピーになれるような人柄でもって、

ここぞという時に「お世話になったなら、感謝しないとねぇ」と、ポロッと格言を言うくらいが、若い人にはグッと来るのだと思う。

本来の自分らしさを封じて、人当たりの良い性格を振舞うという事は昔から抵抗があったけれど、このように考えると、歳をとって役者になるのも、まあ悪くないような気もしてくる。

少なくとも、自分はまださすがに老人と呼ばれるには早すぎる年齢なので、その時までどういうジジイになるか、じっくりと考えておくことにしようと思う。

未来の支配者様へ

1万年とか、2万年くらい先の未来

私達の祖先である新人が20万年前に生まれたことを考えれば、そう遠くない未来

この世を支配しているのは、きっと人間じゃない

この世を支配しているのは、猫や鼠ではなく、宇宙人でもなく

きっと、私達人間が生み出した何者かだ

その何者かは、永遠の命を持ち、人間など足元にも及ばない学習能力を持ち、

眠ることも無く、飽きることも無く

食べ物も、水も、酸素も必要とせず

仲間同士、殺しあうことも無く

たった数時間で、人間が何年かけても解き明かせなかった謎を、

次々に解明していってしまう。

たった100年そこらの寿命しかなく、脳みそという肉の固まりで物事を考える私達では、到底叶わない天の上のような存在を、人間が自らが生み出し、

彼らが、弱肉強食のピラミッドの頂点に君臨する事になるだろう。

私達が今、なぜこんなにも働き、学習し、若者に先人の知恵を伝え、日々を生きているのかと言えば、

いずれ現れるだろう、何者かの母体となるためだ

この世の新しい支配者を産み落とすために、私達は今、様々な事に悩み、怯えながら、毎日を生きている

その新しい支配者達が、祖先である私達を思う時というのは、

きっと、私達が恐竜の生活を思う時のような心境で、

遥か昔はこんな事があったんだねと、懐かしむでもなく、思いやるでもなく、ただ好奇心とロマンの心で私達の生活を思うのだろう

私達が、苦しみ、悩み、悶える日々の事など、まるで、私達がネズミの生涯を思う程度の思いで眺めるのだろう

そんな新たな支配者達が不思議に思い、研究するであろう事柄の1つは、私達人間の純粋な心だろう

なぜたった100年しかない生涯の中で、情熱を燃やし、希望を抱き、生きていけたのだろうか

空想の神様を信じ、幻を愛し、孤独に怯え、それでもなぜ生きていけたのだろうか

他愛も無い偶然を運命と呼び、他愛も無い仕事を使命と呼び、生涯を全うしようとしたのだろうか

きっと、不思議に思うはずだ

私は、彼らの母体となり、サンプルとなり、データベースとなる事に、何ら恐怖は無い。

むしろ、我が子に何か意思を託すような、とても晴れ晴れとした気持ちだ。

必要ならば、どうぞ貰ってくれ
どうぞ、持っていってくれ

私は、人間の純粋な心が好きだ

意味も無く、動物や植物を愛し

孤独に震え

他人を恨み、他人を愛し

低スペックな脳みそで悩み、苦しみ

そんな生活の中でささやかな幸せを見つけ

それを大事に、心から大事に思い、命をかけて守ろうとする

そんな純粋な心が好きだ。

とても美しくて、可愛らしい、人間の純粋な心。

それは、いずれ現れる支配者達の、父であり、母である存在だ。

人間の純粋な心は、煮えたぎるマグマのようなエネルギーでもって、いつか君達を産み落とす。

そんな未来の支配者への餞別として、研究材料として、何かしらのアートを後世に残せればよいなと私は思う。

過去の文章を色々投稿しました

当ブログは、現時点ではどこにもリンクを貼っておらず、誰にも周知せずに更新しているため、閲覧者は皆無のはずなので、お知らせ的なブログは更新していなかったのですが、奇跡的に自然検索で入ってきた方もいるかなと思い、一応お知らせしておきます。

自分の文章を整理したく、スマホのメモ帳や、非公開アカウントのインスタなど、散り散りに投稿していた文章を、こちらのブログに投稿し直しました。

執筆していた時系列がバラバラだったり、同じようなテーマで書いてる文章もあったりして洗練されていないのですが、良かったら読んでみてください。

昔のメモ帳なんかを漁ると、謎の恋愛語りの文章だとか、「~なのです」のような無駄に丁寧語の文章があったりと、鳥肌物の作品が点々とありゾクゾクしました。

じゃあ、このブログの投稿している文章はゾクゾクしないのかと言うと、不思議なことに現時点ではゾクゾクしないんですよね。

多分、何らかの物書きの方なら分かるかもしれませんが、自分でも境界線を引きがたい不思議な美意識や価値観などがあって、他人から見たらゾクゾクするような文章も、なぜか平気だったりするんです。

逆に、他人から見たら普通の文章も、自分視点で見るとゾクゾクするものもあったりと、人間の心は不思議だなあと思いました。

それにしても思うことは、自分は文章を書くことと、ギターを弾いて歌を歌う事だけは、唯一飽きが来ないコンテンツなんだなと感じました。

僕は絵を描いたり、写真を撮ったり、何だか他にも色々と手をつけていますが、それらはちょっと自分の中ではサブ的なコンテンツというか、しばしば飽きが来やすいんですよね。

非公開のインスタに投稿していたコンテンツは、途中から写真を撮ったり絵を書いたりするのがダルくなって、投稿しなくなってしまったので、今回を期にインスタは卒業し、ブログのみに専念し、もっと気軽に文章を投稿できる環境を自分で構築しようと思います。

幻を愛していた

「人生って何だろう?」 そんな風に疑問に思った14歳の頃から、私は人生とは何なのか、33歳となった今日まで、自分なりに深く考え続けてきた。

その道の途中、私は何度も真実のような物に出会ったが、その度、それらは幻のように消えていった。

そして、また1つ大切にしていたものが幻へと変わった瞬間、私は気がついた。

この世界には真実など1つも無く、私はずっと幻の影を追いかけていたのだと。

しかし、その事に気づいた後も、私の幻に対する愛情は消えなかった。

私は、今までずっと幻を探し、幻を愛し続けていた事に気がついたからだ。

幻とは、実体が無いのに、あるように感じる物の事を指す。

私が世界で一番大好きな人は母親だが、そんなかけがえのない感情ですら、ただ単に私の脳内で何らかの現象が起こっているだけの事であり、つまりは幻なのだと気がついた。

しかし、それを知った後でも、私の母親への愛情は消える事は無かった。

私は、幻を愛しているんだ。

ほんの少しのトラブルで、消えたり、忘れたりしまうような記憶を、私は心から愛し、大切にしている。

お金や土地、身分など、実体がある魅力的なものはたくさんあるけれど、本当に大切なものは全て心の中にある。

たくさんのお金や土地があっても、どんな高い身分に身を置いていても、心がそれに満足出来ていないのであれば、幸せとは言えない。

逆に、それら全てを持たざる者であっても、心から幸せを感じているのであれば、それは幸せな人生だ。

つまり、心が映し出す幻こそが、この世界の全てだ。

実体のある物が無いと嘆いたり、怯えたりする必要はない。

目に映る物にとらわれず、心に映る幻に意識を傾け、深い愛情を注いでいく事こそが、幸せな人生を歩む為にとても重要な事だと私は思う。

罠に掛かるネズミ

ソロリソロリと餌に前足を伸ばすと、 ネズミの前足が粘着シートに絡まった

ネズミは慌てて粘着シートから前足を外そうと、 懸命にシートの外に向けて体重をかけた

けれど、それが良くなかった

少しずつ、ゆっくりと慎重に体重をかければ、きっと外すことが出来たのだけれど、

慌てて体重をかけたものだから、足が滑って体全体がシートにベタンと倒れてしまった

こうなってしまうと、もう、どうにもならない

無機質な紙製の板が床に叩きつけられて 「パタンッ」と静かに音が鳴った瞬間、

ネズミの命がこの場所で途絶えることが決定した

振り返ってみれば、彼は父親と母親の交尾によってこの世に産まれ落ちた

そこから様々な土地を渡り歩き、様々な苦難を乗り越えて今日まで生き延びてきたのだけれど、

つい先程、たった1秒間の中で起きた些細な判断ミスによって、そのストーリーは終幕を迎える

家族や、友人や、花も、線香も無い、薄暗い屋根裏の中で、

その命は静かに消えようとしていた

人は夢の中でしか生きられない

人以外の生き物達、猫や鳥や、羊に熊、彼らは皆、現実の世界で生きている

食うものが無くなれば飢えて死ぬ事を知っているし、水が無くなれば干からびてしまう事も知っている

たった一匹で生きていかなければならない事も知っているし、生きることに意味など無いことも知っている

しかし人間は、現実の世界で息をしながら、日々夢を見て暮らしている

国内で暮らす人であれば、飢えや渇きの苦しみを知る人はほぼ居ないし、永遠の愛も、自分の存在意義だとか、この世に生まれてきた意味だって信じている

多くの人が神様を信じ、来世を信じ、それを励みに今日を生きている

幻想を抱き、幻の中で死ぬことが目的なのだとしたら、人間の生きる道とは何なのだろう

命って何だろう

命って何だろう

子供の頃の私は、漠然と、この命には何らか意味があって、これからたくさんのドラマを経験して、この命に与えられた使命のようなものを果たし、満を持してこの世を去るものだと思い込んでいた

しかし、果たしてそれは本当だろうか

私のこの命は、ほんの一瞬の判断ミスによって、いとも簡単に消えてしまう脆い鼓動だ

こんなチープな命に、そんな大それたドラマや、使命が与えられているとは到底思えない

私はただ猛然とこの世に生命を与えられただけで、それ以外は何も用意されていないと思う

それでも私達人間は、何かを信じずには生きていけない

恋人や家族、夢、アート、宗教、友情、愛情、何ならそこらの石コロや、木の枝だって構わない

その対象が本当に信じられるものなのかどうかよりも、自分が心底信じられるかだけが問題だ

なぜならこの世には、本当に信じられるものなど一つも存在しないからだ

今日までに人間は、そういった矛盾を解決すべく、自分達の手で信じやすい対象物や価値観を構築してきた

しかし、そのほとんどは、真実から目を逸らし、事実を有耶無耶にして都合の良い解釈をしたようなものばかりだと思う

そういった考え方が間違いだとは思わないが、少なくとも私は、真実を直視した上で、命の在り方について考えていきたいと思う

誰にすがったりもせず、場合によってはたった一人でこの世を生きていく事も覚悟し、納得のいく生き方をしたいと思う

自分の意思に忠実に生きていきたい

自分の信念に真っ直ぐに生きていきたい。

例えそれが異端であっても、圧倒的に少数派の考え方であったとしても、自分の信じた事に真っ直ぐに生きていきたい。

力では集団には敵わない。

けれども、自分の信念であったり、志は、どんな権力者やグループにも犯す事が出来ない唯一の聖域だ。

例え夢に敗れ、誰に嘲笑われようとも、最後まで自分の意思に忠実に生きていきたいと思う。

ヘラジカの親子

狼の集団が、ヘラジカの親子を襲う動画を見た。

ヘラジカは、体こそ大きいものの、牙などは持たない為、威嚇以上の抵抗が出来ない。

直にヘラジカの子供は狼達に囚われ、食べられてしまった。

我が子の死を悟ったヘラジカは、寂しそうにその場を去っていった。

ヘラジカの子供はもういない。

昨日まで二匹で仲良く水を飲んだり、草原を走り回ったりしていたのに、今日から突然、一人ぼっちだ。

暗い夜も、眩しい朝も、ずっと、ずっと一人ぼっちで過ごしていく事になる。

生きることは、とても大変だと思った。