古い汽車のおもちゃ

彼女は小さな頃から内気だった

僕が小学校の中学年の頃、土曜日に友達と公園で遊んで家に帰ると、小学校の低学年だった彼女が家の前で座り込んで、植木の草を眺めていた。

「どうしたの?」と聞くと、「遊びに来たけど、居なかったから、待っていたの」と彼女は言った。

「僕の家はこれから夕ご飯なんだ」と言うと、彼女は寂しそうな顔をした。

このまま家に帰してしまうのも可哀そうだと思った僕は、母親に頼んで一緒に夕飯を食べようと提案した。

彼女は「少し一緒に遊んでくれたら帰るよ」と言ったけれど、こんな時間に誰かと一緒に遊んだ事が無かった僕は、すっかり気持ちが盛り上がっていて、彼女の手を引いて半ば強引に家の中へと連れて入った。

僕の母と彼女の母は仲が良かったし、彼女の家もたった2軒隣だったので、結局、彼女は今夜、僕の家に泊まる事になった。

すぐに彼女の母親が家に来て、「ちゃんと言う事を聞くのよ」と彼女に念をおした。

その後で僕にニコッと微笑んで、「うちの子を宜しくね」と言った

既に夕飯の準備が整っていたので、僕らは一緒に食事をした。

自分の家の食卓に、家族以外の誰かが座る事自体が初めての経験だったので、僕はとても楽しかった。

彼女は、家の食卓に必ず並ぶ、きゅうりの漬物が大変気に入ったようで、容器の半分をも食べきってしまった。

その後で僕らはお風呂に入った。

家のお風呂の使い方を教えたけど、いまいち理解出来ていないようだったので、僕は一緒にお風呂に入ろうと提案した。

彼女は「えっ、!」と驚いた後で、僕が嫌じゃなければいいよと言った。

僕は、いつもお父さんと遊んでいる水鉄砲で彼女と遊んだ。

彼女の家のお風呂にはおもちゃが無いらしく、お風呂での水遊びは大変盛り上がった。

あまりに盛り上がって1時間近くもお風呂に入っていたので、母親から声がかかり、僕らは風呂を出た。

彼女は、彼女の母親が持ってきた、猫の柄のパジャマに着替えた。

パジャマを着ている彼女を見るのも初めてだったし、こんな時間に家族以外の誰かが家に居る事も初めてだったので、僕はとても気持ちが盛り上がっていた。

僕もパジャマに着替えると、母が「いちごがあるから一緒に食べよう」と言った。

彼女はいちごが大好物だったし、母もそれを知っていた。

彼女はとても嬉しそうな顔で、いちごをパクパクと何個も食べた。

その後、母さんと父さんはリビングでテレビを見ていたので、僕たちは布団を敷く部屋で二人で遊んだ。

僕は、父さんのおじいちゃんの家からもらってきた、古い汽車のおもちゃを地面に広げた。

プラスチック製のレールを敷いて、電池駆動の汽車のスイッチを入れる。

汽車の車輪がモーター音を響かせて回った。

汽車をレールの上に乗せると、ガチャガチャとぎこちなく進んでいく。

そしてレールが途切れると、汽車は壁に向かって一直線に進み、壁にぶつかると地面に転がってモーター音を響かせた。

彼女は、その様子を、ただ傍観していた。

汽車のスイッチを入れてごらんと促しても、彼女は「私は大丈夫」と言って、汽車を地面に置き、手で車輪を転がして遊んでいた。

時計を見ると、もうすぐ11時だった。

僕たちは二人で歯を磨いて、寝る事にした。

いつもは布団を三枚敷いて寝ている部屋に、今日は四枚敷いて、僕と彼女は並んで寝る事になった。

僕は一日中遊んで疲れていたので、布団に入るなり、ウトウトとしていた。

ふっと彼女の方を見ると、布団の隙間から僕の事をジッと眺めていた。

「眠れないの?」と小声で聞くと、彼女は無言でコクリと頷いた。

僕は彼女の手を握って「一緒に寝よう」と言った。

彼女はまた、無言でコクリと頷いた。

朝になって目が覚めると、母さんと父さんは既に布団に居なかった。

彼女の布団の方を見ると、寝る前と同じように、また僕の方をジッと眺めていた。

僕が「眠れた?」と聞くと、小声で「うん」と言った。

リビングに行くと、朝食の準備が整っていた。

今朝の朝食は、いつもの納豆ご飯では無く、トーストや目玉焼きが色どり賑やかに並べられていた。

彼女はウトウトと眠たそうにしながら、トーストをかじっていた。

すると間もなくして、彼女の母親が家に来て同じ食卓に座った。

今まで僕も見たことが無いカップにホットコーヒーが注がれ、それを彼女の母親が上品に啜り始めた。

僕は彼女の母親に、昨晩の出来事を色々と話をした。

彼女の母親はニコニコとしながら、「遊んでもらって良かったね」と彼女に言った。

彼女は、無言でコクリと頷いた。

皿洗いを終えた僕の母親が、いつものカップを手に、食卓へ座った。

僕の母は、彼女の母親と暫く談笑した後で、わざとらしい笑顔を浮かべながら「大きくなったら家にお嫁さんに来て頂戴ね」と、彼女に向って言った。

彼女は、無言でコクリと頷いた後で、僕が嫌じゃなければいいよと言った。

僕は、僕もお嫁さんに来てほしいと言うと、彼女はとてもニコニコとしながら、2回、ウン、ウンと頷いた。

彼女が自宅へ帰って行った。

一人になった僕は、また汽車のおもちゃを地面に広げていた。

スイッチを入れると車輪が回りだし、それをレールの上へ置くと、昨日と同じようにガタガタと不安定に進んだ。

壁に当たって倒れこんだ汽車を、僕は眺めていた。

あれから数年の時間が流れた。

僕は中学生になって、野球部の練習で毎日忙しかった。

彼女とは、時々家の前で偶然顔を合わせる事があっても、昔みたいに一緒に遊ぶ事は自然と無くなっていった。

彼女は小学生の高学年だったので、何となくランドセルを背負った彼女と遊ぶことに、中学生の僕は抵抗があったし、何より幼馴染とは言え、異性と一緒に遊ぶことは何となく照れ臭かった。

たまに顔を合わせると、彼女は家の植木をぼんやりと眺めていた。

その視線の先には、小さな白い花が点々と咲いていた。

その花が好きなのかと僕が尋ねると、彼女は小声で「うん」と言った。

それから更に時間が流れ、僕は大学生になっていた。

ある日、バイトから帰ると母親が深刻な顔をして僕に話しかけてきた。

彼女の父親が亡くなったらしい。

2ヵ月くらい前から体調が悪く入院していたと聞いていたが、まさか亡くなるとは思わなかった。

翌日の夕方、僕は両親と一緒に彼女の家へ行き、お通夜に出席した。

幼い頃に彼女と遊んだ、彼女の家のリビングに懐かしさを感じたが、そのリビングの端に置かれた大きな棺桶と遺影は、その見慣れない違和感も相まって、とても不気味な光景のように思えた。

彼女は高校の制服を着て、リビングの片隅に立っていた。

お父さんは残念だったねと声をかけると、彼女は黙って頷いた。

それから通夜が終わるまで、僕たちは無言で肩を並べていた。

出来れば彼女を慰める言葉をかけたかったのだけれど、あれこれ悩んでみても一向に言葉が浮かばず、ただ僕は隣で黙っているだけだった。

お経を唱え終えたお坊さんが帰り、大人たちが片付けをして、今日のお通夜が終わった。

親戚の人達がゾロゾロと帰っていくのを、僕と彼女は相変わらず肩を並べて眺めていた。

彼女の母親が、親戚達を駅まで送ると言って、玄関で靴を履いていた。

彼女の母親は、僕の顔を見るなり「うちの子を少しの間見ていて欲しいんだけど、お願い出来るかな?」と言った。

僕は少し微笑んで、「分かりました」と返事をした。

すっかり寂しくなったリビングで、僕と彼女は二人きりでソファーに座っていた。

相変わらずかける言葉も見当たらず、ただ地面を眺めてうなだれていた。

僕は、自分の両親がもしも死んでしまったらと、想像していた。

両親と過ごした懐かしい記憶が次々に脳裏を過る。

そして、それらは両親の死をもって、新しい記憶が更新されなくなるのかと思うと、何だかとても不安な気持ちになり、泣きそうになった。

そして、今まさに彼女がその心境の中に居るのかと思うと、余計にかける言葉が見当たらなくなり、そんな自分の不甲斐なさも情けなく思えてきて、涙が出てきた。

僕は彼女にばれないように、スーツの袖で涙を拭った。

彼女の方を見ると、彼女の目にも涙が浮かんでいるのが分かった。

僕は、震える声で、彼女に話しかけた。

「お父さん、まさか亡くなるとは思わなかったよ。」

それから、まだ後に続いて何か言葉をかけたかったのだけれど、涙で声が震えて、それ以上話をする事が出来なかった。

すると、彼女が小さく嗚咽しながら、泣き始めてしまった。

それを見た僕も、涙が止まらなかった。

今まで生きてきて、こんなに涙が出たことも、こんなに言葉が出なくなった事も初めての経験だった。

僕らはそれから何の会話もなく、二人で涙を流していた。

少しずつ気持ちが落ち着いてきた頃に、彼女の母親が帰ってきた。

僕の母親も一緒だった。

今夜は皆で夕食を食べようという事になり、僕の家の食卓で食事をとった。

彼女とは正反対に、彼女の母親は飄々としていた。

さっきまでの僕と彼女の空気とは全く異なり、食卓はそれなりに賑やかだった。

会話が途切れ、少しの沈黙の後で、彼女の母が話しをし始めた。

「まさか旦那もねー、こんな年で死んじゃうなんて、さすがに想像出来なかったよねー。この子もまだ高校生だっていうのにさー、せめて20歳になるぐらいまでは頑張って欲しかったけどねー、まあ、仕方ないけどね」

「幸い、人一倍保険は加入してたから、あの家のローンも多分もうほとんど支払う必要は無いし、貯金もそれなりにあるし、保険でそこそこお金も入ってくると思うから、まあ生活の方は何とかなるかなー、多分ね」

「私も仕事は楽しくやれてるし、まあ第二の人生だと思ってやっていくしかないよねぇ、ほんと、人生何が起こるかわかんないって本当だね」

「(彼女の方を見ながら)まあ、生活の事とか将来の事とかは、そんな感じでお父さんがしっかり準備していてくれていたから、何も心配ないから安心して。お母さんも寂しくないわけじゃないけどさ、正直、1ヵ月前くらいからこうなる事は想像していたし、最後にお父さんとも話を出来て覚悟は出来てるから、大丈夫だから」

「寂しい思いをさせちゃって本当申し訳ないけど、クヨクヨしていても仕方がないから、これからはお母さんと一緒に頑張ろうね」

彼女の母親の言葉は、最後の方は少し声が震えていた。

彼女はまた泣きそうになりながら、地面を見つめて頷いていた。

僕は夕食をつまみながら、相変わらず思い浮かばない、かけるべき言葉を探していた。

それからと言うもの、彼女と彼女の母親と一緒に過ごす時間が増えた。

少なくとも週に1回はどちらかの家で夕食を食べる日があり、すっかり彼女の父親が亡くなった悲しさも、知らぬ間に誰もが感じなくなっていた。

僕と彼女もまた一緒に話をしたり遊んだりする事が多くなり、両親達がお酒を飲みだすと、僕らは決まって僕の部屋でゲームをする事が定番の流れとなっていた。

また、彼女が僕と同じ大学へ進学した事もあり、ますます僕らは二人で過ごす時間が増えていた。

彼女とは小学校や中学校も一緒の学校だったけれど、学年が違うと中々一緒に行動をする時間も無く、たまにすれ違う時に少し言葉を交わす程度だった。

しかし大学となると学年の違いはさほど問題にならず、気が付けば昼食はいつも二人で食べる事が日課となっていた。

大学ではお互いに友人はいたのだけれど、どちらの友人も、彼女の事情や、僕たちの幼馴染という関係を知っている事もあり、特に昼食の時間に二人の時間を邪魔する人間はいなかった。

大学四年生の夏、僕は早々に就職先が内定した。

実家からもそう遠くない、それなりに有名な企業だ。

恒例となった夕食会では、僕の内定を祝って彼女の母親がケーキを作ってくれた。

食べきれない程に巨大なケーキだった。

その日もまた両親達はお酒を飲みだしたので、いつも通り僕らは、僕の部屋でゲームをして遊ぶ事にした。

僕の部屋に入ると、彼女は本棚に置かれた古い汽車のおもちゃに手をかけた。

「これ、懐かしいよね」と、彼女が言った。

「ああ、それね、僕のじいちゃんが昔くれた汽車のおもちゃ、まだ動くのかな?」

僕は汽車のスイッチを入れてみたけれど、汽車は動かなかった。

しかし、電池を入れ替えると、汽車の車輪は「ジーーー」っと音を立てて回り始めた。

僕が汽車を地面に置くと、汽車は真っすぐに壁を目指して走り出して、壁にぶつかると、コテンと倒れ車輪の音だけが部屋に響いた。

「すごい、これって結構丈夫なんだね」と、彼女が言った。

彼女は続けて話始めた。

「昔、すごく小さい時に初めてこの汽車で遊んだ時、私こういうおもちゃで遊んだ事が無かったから、壊してはいけないと思ってスイッチを入れられなかったんだ」

彼女は汽車を拾い上げて、スイッチを切った。

そして、もう一度スイッチを入れると、車輪がジーっと音を立てて回り始めた。

「あの日の事って覚えてる?私はね、実はすごくはっきりと覚えているんだよね」

「初めて人のお家にお泊りに行って、すごく不安だったんだけど、すごく楽しかったんだよね」

「お風呂も、家族以外の人と入る事が初めてだったから、すごく緊張した」

「お風呂の後で食べたいちごも、すっごく美味しくてね、突然思いがけず嬉しい事ばかりの一日になっちゃったから、何だか私は申し訳ないような気持になっちゃってさ」

「それで、この汽車のスイッチを入れるのも申し訳なくて、遠慮してたんだよね」

「でもね、本当は遊んでみたかったんだ」

彼女はそう言うと、車輪が回る汽車を地面に置いた。

汽車は真っすぐに壁を目指して走り、壁にぶつかるとコテンと倒れて、また車輪の音が部屋に響き渡った。

僕は汽車を拾い上げ、スイッチを切った後で、彼女に結婚して欲しいと伝えた。

彼女は、すごく驚いた顔をして、涙目になりながら、コク、コクと何度も頷いた。

その姿を見て、僕も涙が止まらなくなって、彼女を抱きしめた。

僕は彼女の事が好きだった。

幼い頃は、仲の良い友達だと思っていたけれど、中学生くらいになると、なんだか心がモヤモヤとするのを感じていた。

好きなのかもしれないと思うと、何だかとても恥ずかしい気持ちになって、だからあまり考えないようにしていた。

彼女のお父さんが亡くなってから数日の間、僕はずっと彼女の事を考えていた。

それから彼女と過ごす時間が多くなって、自分が彼女の事を好きだと言う事を、はっきりと認識した。

僕がプロポーズをした、その一ヵ月後、恒例の夕食会の最中に、僕は彼女のお母さんに、自分の想いを伝えた。

すると、彼女のお母さんはすぐに涙を流して、震える声で「うちの子を宜しくね」と言った。

僕の両親も、うっすらと涙を浮かべながら、ニコニコと僕らを眺めていた。

それから何年も何年も月日が経った。

僕と彼女はすっかりおじさんとおばさんになっていて、3人の子供も生まれた。

僕の実家と彼女の実家は、どっちがどっちの家なのかという認識も曖昧になる程に両家を行き来しており、子供の成長などに合わせて臨機応変に住む人達の配置変えが行われた。

僕は相変わらず、新卒で勤め始めた会社に通っていて、日々少しづつ変化はあるものの、毎日大して変わり映えの無い生活をしていた。

そんな生活を、正直、特別有難いとまで感じた事もないが、疑問や不満も無かった。

この街に生まれて、この家で育ち、奥さんとも幼い頃から一緒に時間を過ごしてきたから、それ以外の生活や人生なんて想像もつかない。

こんな人生を、他人がどう思うのかは知らないけれど、はっきり言ってそんな事、全く関心が無かったし、僕は今の生活に十分満足していた。

もしかしたら、今の生活以上に幸福感を感じられる人生というものがあるのかもしれないが、正直、全く興味が無かった。

毎日、両親や、奥さんの母親が楽しそうにしていて、子供たちも楽しそうに遊んでいて、何よりも奥さんが毎日ニコニコと楽しそうにしているから、それ以外の事柄に関心が向かなかった。

もちろん、今の生活はずっとは続かないだろう。

きっとお互いの両親が亡くなって、次は僕か奥さんが死ぬ番だ。

けれど、何も不安を感じる事は無かった。

僕は昨日も一昨日も、十分に満足できる一日を過ごした手ごたえがあるし、今この瞬間も、これ以上にベストだと感じる選択肢が浮かぶ気がせず、だから不満も無かった。

仮に彼女の父親のように、ある日突然、選ばれるべきでない家族の命が消えてしまったしても、自分は最善の選択をし続けられたという自信があるから、後悔なんてする余地が無い。

今日も、明日からも、その日一日を精いっぱい過ごす事だけが僕の目標だ。

自分に与えられた道を、ただ精いっぱい真っすぐ進む事だけが、僕の全てだ。

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