想い出は消えない -楽曲解説-

ずっとやろうと思っていた事だったのだけど、歌専用のYouTubeチャンネルを開設しました。

それで、カバー曲の他、ぼちぼち作り貯めていたオリジナル曲も録音・撮影して公開しているんだけれども、今回のブログでは楽曲の解説的な事をしてみようと思う。

こういうのは言わぬが花だとも思うんだけれど、わざわざこんなブログにまでアクセスしてくれている人は、何かしら自分の作品に興味を持ってもらえている人だと思うので、多くを語っても良いのかなと思うし、そもそも自分が話したがりなので素直に執筆してみようと思う。

この曲は、実は先日小さいライブに参加する事になって、そのイベント用に新しく書いた曲だ。

ライブまで一ヵ月ちょいの頃で、何の曲を書こうか悩んでいたんだけれども、音楽というのはその時代に合った音楽を発信すべきと思い、自分が非常に色々な思考を巡らせた、京都アニメーションの事件を題材に曲を書こうと決めた。

前のブログでも書いたけれど、自分はアニメが非常に好きで、京アニの作品である「日常」は、自分のアニメ史上でも3指に入るほどのお気に入りタイトルだ。

そんなアニメーション会社で、あんな事件が起こってしまい、自分はとても残念な気持ちになった。

この曲は、一見して被害者の方々への追悼を込めた歌詞のように作っているのだけど、実はそれだけではない。

この曲は、加害者である犯人の視点にも重なるように歌詞を作っている。

私がこの事件を考察して一番印象的だったのは、加害者や被害者の事では無く、これら一連の事件に対してコメントをする第三者達の言葉だった。

被害者の方々を憐れむコメントと同じくらい、いや、それ以上かもしれない。

犯人に対する、あまりに心の無い罵声が、コメント欄には溢れかえっていた。

もちろん、今回の加害者が起こした事件は決して許されるものではない。

恐らく加害者の体調が回復し、様々な手続きが完了したら、死刑判決は免れないであろう。

そもそも死刑という制度事体を問題視する声もあるし、それはそれで理解出来なくもないのだけれど、とは言え今の日本の法律では死刑判決が妥当だと思うし、仮にそうなったら私は「ああ、やはり死刑判決になったのか」と思うだろう。

どんな理由があれ、このような大人数を巻き込む殺害事件を起こしてしまった人間は、極刑は当然であり、もしそれを覆してしまうのであれば、法律やルールは何が何だか分からなくなってしまう。

私が問題だと思うのは、法律や死刑に関する議論では無く、犯人に対して一面的な見方しか出来ず、一方的に「死ね」などの罵声を浴びせる、第三者の「無知」に関してだ。

どんな凶悪な犯罪を犯した人でも、それは人の子なのだ。

最近、妹の家族に姪っ子が生まれた為、より強く実感するのだけれど、どんな犯罪者も、赤ん坊の頃というのは、まだ右も左も分からず、キラキラとした真ん丸の目をパチパチとさせながら、泣いたり、笑ったりしていたのだ。

犯罪者は生まれながらにして犯罪者なのではない、子供から大人になっていくその過程の環境の中で、犯罪者になってしまうのだ。

ではその環境とは一体何なのだろうか。

最も大きいのは両親の作る家庭環境だろう。

そして友達関係、学校の先生、職場関係などなど、人間は人間によって作られた様々な人間関係によって環境が構築され、その環境が人間性に大きな影響を与える。

今回の犯人に関して調べてみると、まさに凶悪な犯罪者を作り上げる、典型的なルートを辿っていたのだなと私は感じた。

やはり家庭環境は散々だったらしい。更には学校でもいじめの対象となり、恐らくこれといった友達も出来ないまま、学生時代を過ごしたのだと思う。

クラスメイトの言葉の多くは「いじめられたりしていたみたいだけど、ほとんど記憶にも印象にもない」だった。

私は幸いにも、家庭環境にも友人関係にも大変恵まれた人生を過ごす事が出来た。

だから、今の自分が居るのだ。

他人の事を大切に思う事も出来るし、社会生活をトラブル無く過ごすことだって出来る。

仕事にも趣味にも、情熱をもって取り組む事が出来る。

人生に希望を見出して生きていく事が出来る。

これらは全て私の力では無く、私の身の回りの環境を作ってくれた両親や友達、学校や政治であり、私はただただ感謝するしかない。

凶悪な犯罪者の多くは、きっとこれらが無かったのだろう。

だから、他人の痛みに鈍感になり、社会生活でもトラブルを起こし、

仕事にも趣味にも情熱を持てず、

だから、人生に希望を見いだせなかったのだろう。

これは、ある意味でその人の責任ではなく、その人の周りで環境を作った人たちの連帯責任だと私は思う。

しかし、仕方が無い事なんだけれども、この国の法律では、罪を犯してしまった人間、その本人だけが罰せられる事になっている。

彼の事を馬鹿にして、いじめていた人たちは、一切のお咎めを受ける事もなく、過去の事など忘れたかのように順風満帆な人生を謳歌しているかもしれない。

または、彼の一面を見ただけで何もかもを決めつけ、全く理解しようとせず、ただただ否定をしていた人たちも、未だに他人の文句ばかりを口にして、ボリボリと煎餅をかじりながらテレビを見ているかもしれない。

本当に悪いのは誰で、本当の解決策は何なのか。

私は、真の犯人は、今回の事件に関して「死ね」だの「生まれてくるな」だの、人が人に対して使う言葉としてはあまりにも心無い、そういう言葉を平気で発信できる人達ではないかと思う。

そういった言葉を使う人たちは、悪人なのではなく、無知なのだ。

人の痛みや苦しさ、孤独に対して、理解が無いのだと思う。

だから、物事の一面だけを見て、何もかもを知ったかのような気になって、浅はかな考え、浅はかな言動によって、知らず知らずのうちに他人を傷つけているのだ。

そうして傷をたくさん受けた人間は、少しづつ犯罪者としての素質を育てていく事になる。

そんな風にして犯罪が生まれるのだとしたら、悪とはつまり無知の事を指すのだと思う。

心無い言葉を発する人たちも、凶悪な犯罪者の悲惨な生涯を自身で疑似体験出来たとすれば、きっと考えを改めるだろう。

無知な第三者は無知なだけであって、人として必要な優しさや愛情は持ち合わせているのだ。

だから、ただ物事を理解すれば、ただそれだけで悪は滅するのだ。

そういった考えを経て、私がアーティストとして作るべき作品は、そういった凶悪犯の視点を作品を通して伝える事だと思った。

とは言え、あまりに露骨にそういった作品を作っても人には伝わらないと思い、被害者側としても加害者側としても読み解ける、だまし絵のような歌詞を書いた。

もしこの曲を聞いて、被害を受けた人たちがかわいそうだなと思えたのならば、それと同じ熱量で、加害者の事もかわいそうだと思って欲しい。

誰もと同じように人の赤ん坊としてこの世に生まれ落ちたのに、満足に親の愛情を受け取る事もできず、友人も出来ず、

それで犯罪を犯して、名前も知らない大勢の人達から強烈な罵声を浴びせられ、そして何年も刑務所の中で死刑の日を待つことになる。

ただの1度も光の差し込む事の無い人生だ、これがかわいそうと思えないのであれば、もう人じゃない。

人が人を愛せなくなったら、人は人としておしまいだ。

彼は、今この瞬間もまだ息をしている。

様々な犯罪を犯した今も、彼の脳内には、彼を犯罪者として仕立て上げた「想い出」が、今も消えずに記憶として残っている。

誰に頼る事も出来ず、誰を愛する事も、愛される事もなく、ただただ孤独な人生の中で、心のままに涙を流して暮らしているのだろう。

人が人として当たり前のように得られる、普遍的な愛情や友情を纏った想い出は、どれだけ記憶の中を探しても見つからず、

ただただ、孤独や怒り、悲しみや恐怖といった記憶だけが、今も脳内から消えず、死刑台に登る日を待っているのだ。

いつか彼が死刑となる日が来たら、このブログを見てくれている人達だけでもいい

被害者の事をかわいそうだなと思った、その時と同じ熱量でもって、加害者の死をかわいそうだと思って欲しい。

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