愛されたいと願う事は罪なのだろうか?

恋人や家族、両親に友人、人間はこの世に生をうけると、様々な人達と関わり合って暮らすことになる。

その中で自分が周りの人から愛されたいと願う事は、人間として当然の感情のはずだ。

しかし、その愛されたいという欲求が通らなかった時、人間の心は絶望し、疑心暗鬼になってしまう時がある。

また、愛されたいと思う余り、相手の機嫌や心理を探り、自分の本音を隠し、愛される為だけに用意した言葉や行為ばかりを選んでしまったりもする。

要するに、愛されたいという感情は、自分の冷静な判断の妨げになり得る。

愛されたいという感情が無ければ、平静の心のまま、人に無償の愛を与えることも出来るし、誰かからの愛情が突然途絶えてしまった時も、一人で冷静に次の進路を見つけ出す事が出来る。

では、愛されたいと願う事は罪なのだろうか?

誰かに愛していると告げられた時、人の気持ちはどう動くのだろうか。

それは、言葉がどうとかではなく、言われた相手が自分にとってどんな存在なのかによる。

全く無関心な相手の場合、相手の希望に沿うことが出来ない息苦しさや、断り方次第では自分の身に危険が及ぶ可能性あるという恐怖、自分に対する若干の自信の芽生えなど様々な感情が生まれる。

自分自身も好意を寄せている相手であれば、心は充実し、安堵し、愛する人と一緒に居るという安らぎの心になる。

但し問題なのは、人の心は移ろうという事だ。

無関心だったはずの相手に対して、いつからか好意を寄せるようになる事もあるし、好意を寄せていた相手が、いつからか無関心になるような事もある。

ずっとずっと未来の人間の世界では、愛情という感情はどのようになっていくのだろうか?

過去を遡ってみると、原人の時代はきっと獣のようにお互いを求めたり、奪ったり、突き放したりという感じだったと思う。

また、天候や飢餓などに震える中、芽生えた強い絆なんかもあったと思う。

要は、時代は変わっても、その辺の人間の感情は、そこまで大きくは変わっていないのではないのかなと思う。

強いていえば、現代では情報が増え、平和な地域が増えた為、より冷静かつドライな人間関係が増えたのかなとは思う。

結論を言うと、人に愛されたいという感情は罪でも正義でもなく、人間にとって極日常的で自然な感情なので、無理に押さえ込みすぎず、とはいえ出しすぎに注意し、丁度良いバランスになるように出力をコントロールして、上手く付き合っていけたら良いのだと思う。

時に出力調整が上手くいかない場合もあるが、人間が時折体調を崩してしまうのと同じように、それもまた人間の姿であり、愛しむべき個性でもあるので、悪や罪とはせず、人間らしく支え合って暮らしていくのが良いと思う。

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